法務省旧本館 赤れんが棟
住所 | 東京都千代田区霞が関1丁目1 | ||||||||||
電話 | +81 3-3580-4111 | ||||||||||
時間 |
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サイト | www.moj.go.jp/hisho/kouhou/hisho06_00222.html | ||||||||||
カテゴリー | 政府機関, 史跡 | ||||||||||
評価 | 4.3 11 件の口コミ | ||||||||||
Red Brick Building, Ministry of Justice | |||||||||||
最寄りの枝 法務省 — 東京都千代田区霞が関1丁目1−1 外国人在留総合インフォメーションセンター東京 — 東京都港区港南5丁目5−30 東京出入国在留管理局 — 東京都港区港南5丁目5−30 東京法務局 新宿出張所 — 東京都新宿区北新宿1丁目8−22 |
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法務省旧本館 赤れんが棟 件の口コミ
11 司法省の庁舎は、明治21 (1888) 年に着工、7年の歳月を経て完成しました。
ネオバロッック様式の建造物で、耐震性も高められており大正12 (1923) 年に発生した関東大地震も耐えました。
鉄骨をレンガで被覆した梁、一階中央の天井に施されている煉瓦ヴォールトスラブ、2階のコウモリ天井など特徴的な工法も使われています。
昭和20 (1945) 年の戦災により煉瓦の壁と床を残して消失。
戦後昭和25年までに復旧が行われ使用されていましたが、平成3 (1991) 年に保存工事がはじまり、平成6 (1994) 年に復元されました。
外観は、重要文化財に指定されています。
平日のみですが、内部見学ができます。
警備員の方より簡単な説明がありますが、内部での写真は撮れません。執務中なので静かに、という注意もあります。
中に入ると、仕事中の方達が丸見えの部屋もあります。
1番面白く思ったのは、広沢真臣暗殺事件の際に、医師が傷の箇所をわかりやすくするため使用した人形でした。
昔の刑法では認められていた復讐法などの資料も、面白く思いました。
勿論煉瓦の外観もいつみても素晴らしいです。
ドラマ 石子と羽男 で
主人公が疾走する背景に
美しい赤レンガの建物
ドラマのテーマにもつながっていたのか。
先日、ぶらぶら美術博物館 で この建物内部が紹介されていました。
外観も美しいし、内部も豪華。
この建物の歴史については、他の方のコメントが詳しいので省略
1980年代 東京再開発? で、あの東京駅の赤レンガでさえ、存亡の危機にあった。
それらの時代をこえて 残されたのは、歴史的価値だけでなく
この美しさゆえだと思う
入口で受付を済ませます。荷物検査等はなかったです。資料館・歴史館という感じなので建築をゆっくり見ることは難しいです。外観と、資料館に行くまでの内部を見ることができます。資料については私はあまり興味がないので難しいです。他のお客様はいらっしゃいませんでしたので、一人で30分ほど資料館を見回りました。案内の警備員の方々はとても親切でした。
赤れんが棟は、ドイツ人建築家ベックマンとエンデ両氏の設計によるもので、7年余りの歳月を費やして明治28年12月に司法省として竣工されました。
昭和20年3月の東京大空襲では、れんが壁を残し屋根、床などを焼失したため、昭和23年から同25年にかけて復旧工事を行い、屋根などの形状や材質が一部変更されていましたが、その後の改修工事では明治28年の創建当時の姿に復原され、平成6年12月27日には重要文化財に指定(外観のみ)されました。
現在は赤レンガ棟として法務総合研究所、法務図書館、公安審査委員会が入っており、建物は内部見学が可能(無料)です。
貴重な歴史的建築物です。
電話対応が悪い。
民事局の参事官室。
家庭、民事問題については、非常に重要な役割をもつこの機関の担当が、適当な返答をしている。
誠意がない。誠実さが伝わらない。国民の意見など聞いても、、といった対応。
別の担当はいないのだろうか。同じ男性が全て対応している。不誠実に加わり、不審さもすごい。どうなっているのか?
政治に興味がない若者が多く、対応がさびれてしまったイメージ。
門の警備員に見学を申し出ると、入館証を渡され、注意事項の説明があった。その後、建物に真っすぐ進み、関係者以外立ち入り禁止の看板を無視して、扉のないところを進むと警備員室があり、体温測定を行い、外に戻って建物の北側の入口からの入館すると、警備員から3階に行くよう指示される。3階で氏名、健康状態を記入して係員に渡して見学 (無料) となる。館内は撮影禁止です。
罪人への入墨が、東京、大阪、長崎などの地域によって異なっていたことを初めて知った。
有楽町線の桜田門駅の5番出口からすぐです。
赤れんがの建物が目を引きます。
国の重要文化財なのですね。
内部も見学できるようなので、こんど時間がある時にでも見学にしてみたいと思います。
現在の赤レンガ棟は平成に入って再建されたもの。過去の関東大震災には耐えたものの東京大空襲でレンガを残して焼け落ちてしまったらしい。
館内では赤レンガ棟が建てられた当時の明治後期以降の法律の歴史や、法務省の活動紹介、そして建築当初、戦後、平成の赤レンガ棟の模型をそれぞれ展示している。
館内のバルコニーからは桜と皇居やお堀、そして丸の内のオフィス街を望むことが出来、非常に景色が良かった。
国指定重要文化財。
明治二十八年 (1895年) 竣工。
第二帝政様式(ネオ・バロック様式)と呼ばれる折衷主義建築。
設計者は,鉄血宰相ビスマルクの建築顧問を務めたヘルマン・エンデとヴィルヘルム・ベックマン。
井上馨の「官庁集中計画」の中で実現し,唯一の現存する建物。
以下,建設までの流れなど。
欧米列強が領事裁判権を主張した理由】
チャイナ・リスクという言葉があるが,これは中国で経済活動等をする際の漠然とした不安要素,つまり,カントリー・リスクのことを言い表したものである。
実際問題として,「中国で経済活動をすると何が起こるか分からない」「法の支配が確立していないから,日本ではありえない判決が飛び交う」みたいに思っている日本人は,結構多いのではないだろうか。
実は,十九世紀の欧米列強もこれと同じようにして,「日本で経済活動をすると何が起こるか分からない。欧米ではありえないことが起こる。野蛮国はリスクがある」と考えていたという。
そこで,欧米列強は,領事裁判権を条約によって日本に保障させ,本邦で活動をする欧米人を野蛮国から積極的に守ろうとしていた。
日本からしてみれば失礼極まりない話であり,明治政府も「もう勘弁してくれよ」という気持ちではあったが,欧米列強の側にも一応の正当化の理屈はあった様である。
欧化政策によるカントリーリスクの払拭の試み】
明治十二年 (1879年) ,外務担当者であった井上馨は,「欧化政策」と呼ばれる一連の政策を打ち出し,領事裁判権の撤廃を目指した。
欧化政策とは,その名の通り,日本を欧米化する政策のことである(井上自身は,「欧米を取り入れた上で乗り越える」という気概があったらしいが,周囲には単なる欧米の猿真似と理解された。)。
そもそも欧化することがなんで領事裁判権の撤廃に繋がるのかというと,
「欧米風の家もいっぱい立てました」「欧米の思想もつぶさに導入しました」「たくさんの学者を留学させて,欧米人が納得するような法律運用方法も練習しました」「だから,日本で活動する欧米人に訳の分からないことはしません」「だって,もう完全に欧米のやり方を理解しましたから」「日本は既に欧米の文化と価値観を理解し,尊重し,共有しているのです」「だから,もう日本に対する不安感はないでしょ?」「そういうことですから,領事裁判権は撤廃しましょう!」『はい,分かりました』みたいな展開を期待していた様である。
官庁集中計画とその狙い】
明治十九年 (1886年),欧化政策の一環として,官庁集中計画が提出される。
これは井上が招致したドイツ人建築家ヘルマン・エンデとヴィルヘルム・ベックマンによる立案であり,その内容は,東京都心(具体的には,現在の皇居ー日枝神社ー愛宕神社ー浜離宮ー築地本願寺に至る広大な範囲)をパリやベルリンの様な欧米都市に近付けさせるものであった。
この計画の狙いは,「貴方たちの文化を理解し,尊重し,共有していますよ」「貴方たちと同じですよ」ということを欧米列強にアピールし,ひいては領事裁判権の撤廃への援護射撃とするのが第一義であったのだろうと考えられる。
建物は第二帝政様式のデザインを採用】
エンデとベックマンは,この計画の中で,「第二帝政様式(ネオ・バロック様式)を提案し,井上は,これを採用した。
第二帝政様式とは,後期ルネッサンス様式(マニエリスム様式)のファサードをベースに,他の時代の様式(主にバロック様式)を折衷させたもので,方形ドーム屋根またはマンサード屋根,屋根窓などが特徴とされている。
その名の通り,フランスの第二帝政期(1852年∼1870年)に登場し,その後20世紀に至るまで欧米各国で流行し,特にドイツなどでは公的建築物のデザインとして積極的に採用された。
この様に流行した理由は,「横方向に巨大化させても不自然でなく,人を大量に入れられること」「今までの建築様式の中で,一番威厳がある様に見えた」などの理由からと言われる。
したがって,井上もこの辺を意識して採用したのだろう。
赤煉瓦工場の建設】
さらに,エンデとベックマンは,官公庁建築の資材として日本製の煉瓦の使用を考えていたという。
しかし,その品質がとてもとても悪いことに気が付いてしまう。
そこで,ベックマンは,日本国内でちゃんとした煉瓦を作れる体制を整えようと考え,関東近縁で赤煉瓦の材料になりそうな粘土層を丹念に調べたのだそうだ。
その結果,埼玉県北西部の粘土層が煉瓦の材料として適していることを突き止め,明治二十年 (1887年) ,深谷の上敷免に日本初の本格的な煉瓦工場が誕生した。
なお,後にこの工場の赤煉瓦が東京中の建築物や構造物に使用されることになった。東京駅が代表例である。
煉瓦が白でなく,赤である理由】
粘土層に含まれる鉄の含有量によって,煉瓦は赤くなる。基本的に欧米の土には鉄分が含まれるため,普通に焼くと煉瓦は赤くなる。
しかし,一般に欧米の煉瓦建築は漆喰で仕上げ,赤から白に塗り変えることが多かったとされる。
ただ,霧が激しい北ヨーロッパ地域,つまり,ドイツ北部やイギリスでは,視認性向上のため,白色の建物よりも赤色の建物が好まれる傾向にあったという。
したがって,おそらく北ヨーロッパのそういった風土的影響を引き継ぎ,日本でも,赤煉瓦を赤煉瓦のまま使うことになったものと思われる。
井上の欧化政策の頓挫と計画の縮小】
明治二十年 (1887年) 九月,「何でもかんでも欧米欧米」という欧化政策に対する世論の反発が限界に達し,井上は,外務大臣を辞任した。
この結果,官庁集中計画も井上の手を離れ,縮小に縮小を重ねられることとなり,当初の大都市計画から一転。司法省・大法院・議事堂の三施設だけを建設する運びとなってしまう。
考えるに,これら三施設だけが残された理由は,領事裁判権の撤廃後,日本が欧米人を欧米のルールで裁くために必須の施設であったからだろう(けれども,最終的に建築されたのは司法省と大法院の二施設のみであった)。
その他】
外観のみの観察で,中には入らなかった。いつか入ってみたい。
また,東京地方裁判所(入場無料)の方から法務省旧本館の屋根を見ることが出来る(ただし,撮影は禁止らしい)。
国の重要文化財に指定されている歴史的建造物です。皇居外周の近くを通るたびに、赤レンガの重厚感に引き寄せられてました。
今回は30分ほど時間があったので、3階の資料室を見学させてもらいました。無料で見学ができるのですが、現在も庁舎として使っているので、気軽ではなく、守衛さんも4-5人見張っているし、見学を申し出るには緊張感がありました。
その時私はNTTドコモが貸してる、赤のレンタルサイクルだったのでなおさら (笑)
ただ、自転車置き場まで自転車を引きながら誘導してもらえました。
歩く場所や撮影の場所を指定されるし、自由な雰囲気ではないです。また資料館以外の内部は撮影禁止となっています。
平成6年に復元された建物なので、結構綺麗な感じです。