切支丹屋敷跡
住所 | 東京都文京区小日向1丁目24−8 |
電話 | +81 3-5803-1174 |
時間 | 00:00-24:00 |
サイト | www.city.bunkyo.lg.jp/bunka/kanko/spot/shiseki/kirishitan.html |
カテゴリー | 史跡, 観光名所 |
評価 | 4.1 7 件の口コミ |
Remains of Kirhishitan Yashiki | |
最寄りの枝 |
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切支丹屋敷跡 件の口コミ
7 かに、文京区の切支丹屋敷についてあなたが提供した情報の翻訳は次のとおりです。
島原の乱(1637~1638年)から5年後、イタリア人宣教師ピエトロ・マルケスら10人が筑前に漂着した。彼らは直ちに江戸に送られ、伝馬町の牢獄に投獄されました。その後、宗教異端審問官井上正重の下屋敷内に牢獄と番所が建設されました。これがキリシタン住宅の始まりでした。それは 1792 年に宗教異端審問が廃止されるまで続きました。鎖国と反キリスト教政策のもとで、宣教師と信者はそこで拘留されました。 1708年、イタリア人宣教師ジョバンニ・シドッティが屋久島に到着し、キリシタン屋敷に投獄された。 6代将軍家宣に仕えた新井白石はシドッティを尋問し、その情報を『西洋紀文』にまとめた。 2014年に行われた考古学的発掘中に、3つの墓と人骨が発見されました。遺体のうちの1体はシドッティである可能性が高いと考えられている。
所在地:文京区小日向1-24-8 [地図]
アクセス:
・東京メトロ丸ノ内線「茗荷谷」駅より徒歩約8分。
藤沢周平『市塵』のなかで~新井白石と切支丹宣教師シドッチ (イタリア/シチリア/パレルモ出身) のやりとりに興味をもって 同場所を訪ねました。彼が所持していた『聖母像』通称“親指のマリア”は 東京国立博物館蔵 重要文化財です。昨年12月末に遭遇 拝観しました。
切支丹屋敷。字面だけでも何となく禍々しい。
この語を知ったのは40年ほど前、保育社のカラーブック『東京歴史散策』だったか。掲載はモノクロのページで、写真も当然モノクロだ。所在が茗荷谷というのも、どうもジメジメした感じで、何となく陰鬱な印象が焼き付いていた。
けれども2年ほど前、勤めがそこから歩いて行けるほどのところとなり、以来心の端にチラッチラッと顔をのぞかせるようになった。
そういう時には不思議なもので、YouTubeでジョヴァンニ・シドティ師(1668・パレルモ-1714・江戸)の遺骨がこの遺跡で発見されたことを伝える映像に接し、大変驚いた。時を同じくして、NHKラジオの『宗教の時間』で、上智の高祖理事長がシドティ師について語る番組を聴き(それも聞き逃しサービスで)、もう矢も楯もたまらなくなり、現地に行ってみた。
まずは適切なガイドブックが必要だ。この発見(とシドティ師の復顔)を機に文京区が催したシンポジウム(2016年11月)の記録があるようなので、区役所で買い求めた(手際よくまとまった、良い参考書だ)。役所から現地には、地下鉄を使うのがまぁ便宜だが、さほど遠くもないので歩いて行った。
水道端の通りを右に折れて坂を登る。ややあって切支丹坂に行き当って左折。
この切支丹坂というのは私が折れたのと反対、右側に向かって下っている(つまり切支丹屋敷は「谷」ではなく坂上にあった)のだが、眼と鼻の先に何と地下鉄の線路の下を潜る箇所があるのだ。地上を走る地下鉄の下を潜るとはまことに愉快な言葉遊びではないか。
閑話休題。切支丹坂を登ると突き当り。それを右折すると幼い頃に本で見たのに変らぬ遺跡碑があった(この石碑は何度か転々としている由)。だが一大発見があったのは碑と道を挟んだ反対側、築後ほどないマンションの敷地でのことだった。こちらには文京区が新たに設置した「小日向一丁目東遺跡」のプレートがある。何でも縄文から奈良・平安、中世の遺跡、さらに切支丹屋敷に至る近世の遺跡が層々と重なっているそうだ。先史時代から人の暮らしに適していた地に、切支丹屋敷は設けられたのだ。迫害とか陰惨な拷問とはおよそ遠い向日性の印象で、日本近世の統治はそれなりに法治的だったと思いが至る。
さて切支丹屋敷跡のいしぶみだが、これは一種名状しがたい味わいがある。
何でもさる神父さんが私費を投じて建立したものだそうで、材は白御影だろうか大きさは膝ほどで、色やサイズからすればさほど目立つものではない。銘は填墨されておらず摩滅してもいて、その場でも撮影した拡大画像でも判読できないのは残念。
でもこの石碑、実に心憎い。台石は仏像の反花のよう。本体は縦長方形の四隅を抉ってクロス状の仕立てで、織部燈籠のような造り。
田原町のさる有名仏壇屋が「心はかたちを求め、かたちは心をすすめる」というのをキャッチコピーにしている。この石碑はその言葉の美しい結実だ。施主のパードレの、シドティ師への欽慕と日本への愛、総じて言えば志というものが、痛いほど伝わる。
さて私は、なぜここに来たのだろうか。
どうやら「囚われの身」という共通点を見出したからではなかろうか。
シドティ師はここで亡くなるまでおよそ5-6年を過ごした。彼は日本の禁教は十分承知していたが、清朝がキリスト教に対する姿勢をやや緩めたことにより、日本の動向を確かめるべく周到な準備の上で渡来した。
ヴァティカンでもマニラでも言語習得をはじめとして日本情報の収集に余念がなかったらしく、屋久島上陸に際しては月代を剃り和服を着用していたそうだが、いかんせん外見が明らかに日本人でなかったのですぐに捉えられ、長崎経由で江戸送りとなった。
私だったらここで絶望してしまいそうだが、シドティ師は棄教することも、(教義はあったにせよ)自経することもなかった。洗礼を授けた咎で結局は押込めに遭い、衰弱して亡くなったらしい。しかし最期に至るまで使命感というか視点の位置は変わることがなかった。
なぜそのようなことが言えるかといえば、記録者がいるからだ。
新井白石。彼は四たびに亘ってシドティ師と相対し、後に『西洋紀聞』をまとめた。これによってシドティという人の志の揺るぎなさが伝わった。私は白石には『折りたく柴の記』を通じて接したが、その書きぶりが勿体ぶったように感じ、早々に手をあげてしまった。以来遠い人で、況してや『西洋紀聞』にまで及んでいない。しかしシドティという人の輪郭を、明確かつ公正に描き伝えられたのだから、並々ならぬ人物だったのだろう。ぜひ襟を正して読んでみることにしよう。
シドティ師は洗礼を授けた=布教したことによって罪を被ることになったが、どうやらそれは受洗した長助・はる夫妻(屋敷の下働き 保菌者のように世間に出ることが生涯許されなかったらしい)の告白によるらしい。この夫妻は、結果として師を沽ることになる告白を、なぜ敢えてしたのだろう。
ラジオの高祖説によれば、それは夫妻が後ろ暗くなく生涯を全うすることを望んだからだという。シドティ師はいわば巻き添えを食らって押込められたのだが、自らの区画から力ある限り夫妻を励ます言葉を発していたという。もとより覚悟の上の渡航であれば、恨みがましい言葉はなかったのだろう。高祖説も、私には尤もな理解だと思える。
私たちは人間の精神の奕々とした輝きに接することがある。シドティ師の生涯にも英雄的なそれを看取ることができる。そういう輝きを見ることが多いのがヨーロッパ人なのはどうしてだろう。先の大戦中のポーランドやフランスのレジスタンスを思ってみてもよい。
一命にかえても顧みることないという精神。日本人はそれを持たないというのではない。それは先の大戦で厭というほど事例を重ねた。しかし拠って立つ基盤が同じとも思えないのだ。それは一面、磔刑に処し処せられ、断頭台に載せ載せられたりするような試練のない歴史を持つ幸運によるのではないか。
私たちは今、そういうのとは違う形で、歴史的な試練のもとにあるような気がする(渦中にいると案外わからないものだ)。一種の囚われの身でありかつは抵抗する者だ。血で血を争う相手でないことは幸いなるかな。
自らの信念を堅持し、フェイクに惑わされずに知覚・行動する。300年前の人間にできたことだ、私にもできないこともあるまい。
以下は余談。シドティ師は日本語を習った上で渡来したというが、白石はそれが通じなかったと記録している。ではどうやって対話したか。
日本、長崎にはオランダ通詞がいたが、シドティ師はオランダ語を解しなかった(新教国のオランダに良い印象を持っていなかったらしい)。ただ、通詞の中にラテン語を僅かながらも知る者があり、その人(達?)に補強させ、ラテン語を介して対話したのだという。東洋の漢語、西洋のラテン語だなぁ、とつくづく思った次第。また白石は、その不便な対話を重ねるうちに、いわば以心伝心ともなったとも記している由で、これまた味わい深い。この心の働きは安直なものではない。自己(の考え)が確立していて、なおかつ相手と立場の交換ができるほどの健全さがあればこそだ。
さらに余談。この切支丹屋敷は、『沈黙』のモデルとなった宣教師の終焉の地でもある。
もっと余談。この近くには、私設の資料室があるらしい。何とか訪ねてみたいものだ。
明治、大正の頃の奇談、怪談に時々出てくる史跡。今はマンションや住宅に囲まれて、石碑があるのみ。時代の流れだから仕方ないが、石碑のみだと味気ない。石碑の向かい側に小日向周辺の遺跡についての案内板があり、何となく切支丹屋敷の規模は想像できるかな。
営業でお客さんのところにお伺いする際に、いつもと違う経路で行った際にたまたま見つけました。
受験で習った、ヨハン・シドッチ。江戸時代中期に屋久島に潜入し掴まってしまった宣教師。イタリア人だったと記憶している。新井白石に尋問を受け、確かそれをもとにした書物を残してるはず。「西洋紀聞」と。。なんだっけ?
まさかその牢屋敷がここにあったなんて。。
このあたりの坂を下ると飯田橋や江戸川橋付近になるはず。外堀の外ではあるが、かなり江戸城にも近い。あえて目の届くところにおいたんだろうか。
私もかなり以前興味があったので調べたことがあったのだが、
シドッチ以後、外国人宣教師の入国は記録になく、さらに数年前に発掘調査したところ、数名の人骨が見つかり、鑑定の結果、シドッチ本人であることが確定したという。
残りの二つは、恐らく世話をしていて感化、洗礼を受け、同じく罰せられた世話人夫婦だと思う(私見ですが)。
とにかく、思わぬ歴史に触れることができた。
寛永20年 1643年に筑前国へ漂着した、
イタリア人宣教師 ジュゼッペ・キアラら10人を収容した施設跡。
1792年まで使用された。
2014年にイタリア人宣教師 ジョバンニ・シドッチの骨が発見され、
俄かに脚光を浴びた事がある。
シドッチは日本史の中に登場する、
新井白石が記した西洋紀聞 采覧異言に影響を与えた。
現在は住宅街になっていて、
石碑が残るのみ。
江戸期に、ご禁制のキリシタン(平信者ではなく、バテレン。神父)を軟禁していた屋敷の跡。石碑と東京都教育委員会の説明看板が立っている。
最後に収監されたのは、イタリア人宣教師シドッティ(Giovanni Battista Sidotti、シドッチ)で、新井白石もここで彼をさまざまに尋問し、『西洋紀聞』や『采覧異言』にまとめた。看板にもある通り、ここは西洋の事情を探るひとつの窓でもあったのだ。
シドッティは魅力的な人物であったようで、この切支丹屋敷で彼を見張り、身の回りの世話をしていた老夫婦が感化され、とうとうキリシタンになってしまった。布教を固く禁じられていたにも関わらず、このような事態になったので、シドッティらは地下牢に移され、間もなく死んだ。2014年の調査で、彼らの骨が発掘されている。