片倉城跡
住所 | 東京都八王子市片倉町2475 |
電話 | +81 42-649-8300 |
時間 | 00:00-24:00 |
サイト | www.city.hachioji.tokyo.jp/shisetsu/109/p011931.html |
カテゴリー | 城, 史跡 |
評価 | 3.9 8 件の口コミ |
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片倉城跡 件の口コミ
8片倉城址公園として整備され、緑豊かな散策路になっています。舌状台地の先端に築かれた城で、台地先端部は切岸状に削られた斜面となっており防御力が高さが伺えます。また、台地側に続く方面には深い空堀が掘られ、侵入を防いでいます。片倉つどいの森公園と隣接し、かなり広域な緑地公園となっており多くの人が訪れる心地の良いところです。
片倉城跡です。中規模の山城です。
現在は城山公園として保存管理されています。無料の公園駐車場が有りました。車十台分ぐらいでしょうか。
築城年、築城主は不明。
しかし武蔵国の歴史書には1300年代に
大江氏 (毛利元就の居た安芸毛利氏の祖) やその後裔の長井氏の在城の記録がありますが築城主なのかは定かではないとか。
南北朝時代前後の築城と予想されています。
公園を入ってまずは池が有り、そこでカワセミの美しいブルーを見る事が出来ました。
そして二の丸広場を目指すと、右手側に深く広大な空堀を見る事が出来ます。
ある程度自然の地形を利用した要害ですが、ここまで大規模な深い空堀は珍しいです。落差20〜30メートルぐらいは有りそうですね。
二の丸から本丸へと行く場所にも小規模の空堀が有ります。 (橋が有り)
それ程大きな山城では無いですが、本丸跡、二の丸跡、曲輪、土塁、空堀など遺構はキチンと保存されていました。
また公園内には住吉神社が有りますので、最後にお参りして帰りましょう。
神社には大江氏 (毛利氏も同じ) の家紋で有る
「一文字に三つ星」が見えます。
この家紋を見た瞬間に毛利氏が頭に浮かび
そして、その祖である大江氏系の山城かな?とピンと来ました。
説明書を読むとやはりそうでしたね。
神社には樹齢600−700年ぐらい?の双頭の杉の大樹が御神木としてそびえていました。
神社も片倉城跡とセットで見学すると良いでしょう。
橋が再建されている以外は、建造物としては何も遺っていません。
ただ、土塁や堀などはハッキリ分かる状態で見所が多く感じました。
規模としても、それなりに大きく、ある程度の重要施設で有っただろうと思えあれます。
まず立地というか、アクセスでみれば駅から徒歩5分ほどで行けて駐車場もあり非常に行きやすさで見れば良いと思う。
次に中については、元々は私は時間潰しで偶然来たのですが非常に自然が豊かで癒されました。八王子駅のすぐ隣の駅でこんな場所があるとは驚きました。
しかし片倉城址の本丸跡にいくには所々道が険しく小さい子やベビーカーの人は大変だと思う。あと本丸跡以外には特に住吉神社があるくらいで長い時間を潰せるか言われると、現に私も30分ゆっくり歩いて1周回ったが、それ以上は難しい。なので来るとしたらリフレッシュや少し自然を見ながらウォーキングしたい人ぐらいなのかな…Ҩ (´-ω-`) あとこればかしは、どうしようもないですが虫が多いです…笑
でも自然は綺麗でした!
動植物、広場、神社、彫刻作品などなど
色々な要素があって広い世代の人が楽しめる場所でした。 城跡地のため勾配差があり、ちょっとしたハイキングにもなるので体を動かしにくるのも良いですね
八王子市片倉町にある平山城である「片倉城址」に行ってきました。JR横浜線 片倉駅駅から徒歩5分位で行けます。
城郭跡は本丸と二の丸があり、結構な急勾配を上がっていきます。城郭跡は二の丸がやけに広く、本丸へは空堀でくっきり仕切られていて、橋で渡ります。今でこそ浅くなっていますが、当時はかなりの深さだったと思われます。雑木林のカタクリやヤマブキソウ、ウバユリ、ヤマユリなどの植物が楽しめます。私は当日キジを見ました。
八王子市掲示板には以下のように記述されています。
片倉城跡は、湯殿川と兵衛川の合流点を臨む北東方面に張り出した丘陵先端部に位置する中世城館です。北・東・南の外周部は約三〇mの急崖となっており、自然地形を生かした城郭です。西からの丘陵頂部は平坦ですが、深い空堀により画された主郭と第二郭からなります。現道の配置等から第二郭の西方にも堀切りがなされ、三郭からなる直線連郭式城郭であった可能性もあります。空堀に画された二つの郭には土塁や櫓台、腰曲輪、土橋などが良く残ります。
『新編武蔵風土記稿』などでは応永年間(一三九四-一四二八)の大江備中守師親の在城を記し、大江氏や大江氏の後裔の長井氏の城郭とされていますが、確証はありません。
築城主体や年代の特定は困難ですが、深大寺城跡などの他の中世城郭との比較から一五世紀後半以降に築城され、一六世紀代に廃城になったと推定されています。しかし、城郭としての配置や技法、古川越街道や鎌倉街道と隣接する交通の要衝であることから、小田原北条氏による築城や利用の可能性も指摘されています。