両国花火資料館
住所 | 東京都墨田区両国2丁目10−8 | ||||||||
電話 | +81 3-5608-6951 | ||||||||
時間 |
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サイト | visit-sumida.jp/spot/6036 | ||||||||
カテゴリー | 博物館, 観光名所 | ||||||||
評価 | 3.4 7 件の口コミ | ||||||||
Ryogoku Fireworks Museum | |||||||||
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両国花火資料館 件の口コミ
7 両国花火の歴史がバネルで紹介されています。また、本物の花火玉や打ち上げ筒などが展示されており、なかなか興味深いです。館内はとても狭く10分もあれば見終わってしまいますが、花火に興味のある方にはお勧めです。場所はビルの奥の方なのでて少し分かりづらいです。記念スタンプもありました。隣の回向院とセットにするとおもしろいかも。
今年の隅田川花火大会葉残念ながら中止になってしまいましたが、来年また楽しみたいですね。
「流し(ながし)」という言葉をご存じでしょうか。
「流しのタクシー」とか「酒場まわりの流し」とか言ってましたが、今の時代はもう死語になってしまっているのでしょうか。
「流しのタクシー」とは道路を走り、沿道で客を拾うタクシーで「酒場まわりの流し」はギターかアコーディオンを抱えて夜の酒場をまわりお客さんのリクエストに応えて歌を歌いお金を貰う職業で今はほとんど見られないようです。のちに歌手になった北島三郎はこの流しをしていたと言われております。
この流しの語源は古く、江戸時代に遡ります。
江戸時代の両国橋付近は大変な繁華街で賑わっておりました。
5月末に隅田川の両国川開きが始まりますと、両国橋付近は納涼船がひしめきあい、特に両国花火の時などは大変な状況になります。
その混雑した船の間を物売り舟や義太夫などの歌の舟がぬっておりお客さんから声がかかると寄っていき、終わると次の舟を探して流しておりました。
これらの舟のことを江戸っ子は「流し(ながし)」と呼んでいたそうです。
酒場まわりの「歌の流し」は消えてしまいましたが。「タクシーの流し」はまだ健在のようです。
両国駅から程近く花火の歴史を知れる資料館。
無料では申し訳ないくらいの細かなパネル展示があります。
館長さんのお話もとっても分かりやすかったです。
外人さんをご案内するのにも江戸の情緒を説明してあげられるのに良いと思います。
回向院の境内は江戸時代の相撲の定場所で、この場所には明治時代に最初に建てられた国技館があった。その建物は平成になるまで残っていたんですけどね。日本初のドーム型の建物だったんです。東京ドームは空気の力で屋根を膨らませてますが、こちらは屋根が銅板で、大鉄傘と呼ばれていたそうです。東京大空襲でも焼け残り、戦後は米軍に接収されローラースケート場になって、後に日大の講堂になったが、私が見た昭和50年代には使われていなかったですね。花火資料館としては、この場所は正しい選択ですね。今の隅田川の花火大会は浅草主導のイメージがあるが、本来は両国橋のあたりで上げていたそうで、川開きといわれているけど、明暦の大火の被害者の慰霊が目的だったそうです。だから回向院の近くで上げていたんです。
花火の歴史や花火自体などがよく分かりました。
またビデオ30分程度も詳しく学べました。中は一部屋ですがお話を含めて充実。小学生のお子さんや多くの方が訪れるのも納得でした。
両国花火のあゆみ
大飢饉とコレラの流行により江戸で多くの死者が出た享保17年(1732)8代将軍徳川吉宗が死者の霊を弔う法界であり「川施餓鬼」かわせがきを現在の隅田川河畔で開催されました。その翌年川施餓鬼と合わせて川開きの日に行った水神祭で花火を打ち上げたのが花火大会のルーツといわれているそうです。
無料で色々教えて頂きました。
自分は興味のある話だったのと比較的時間に余裕があったので最後まで係の方の話を聞けましたが…会話が本題から逸れてしまう事もあり…思った以上に時間を消費してしまいました。
素っ気なく帰る方もチラホラいらっしゃいましたが…
まぁ無料だし御愛嬌だと思います。