江戸城本丸跡
住所 | 東京都千代田区千代田1 |
電話 | +81 3-3213-1111 |
時間 | 00:00-24:00 |
サイト | chiyoda-tokyo.net/edojohommaruato |
カテゴリー | 史跡, 観光名所 |
評価 | 4.4 15 件の口コミ |
Remains of Edo Castle | |
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江戸城本丸跡 件の口コミ
15 皇居東御苑内で、広々とした芝生が広がる本丸跡。
江戸時代、徳川将軍家は江戸城本丸に居住し、政務を行った。
本丸御殿は1606年に完成、地震や火災により何度も倒壊・焼失したが、そのたびに再建された。最後の本丸御殿は1863年に焼失、1864年(元治元年)に西の丸仮御殿が再建され、皇居となった。
本丸御殿は1606年に完成し、その後何度も再建・焼失が繰り返され、1863年の焼失を最後に再建されずだったようです。
現在は中之門方面から本丸跡に入っていくと、広い芝生スペースが広がっていること、そして奥の方には天守台を見ることが出来ました。
当時はこの一面に大きな本丸御殿があったんだろうなと想像しました。本丸御殿は表(おもて)、中奥(なかおく)、大奥(おおおく)という三つの空間に分かれていたようです。
※ 2023年12月24日に投稿
大手町から歩いてすぐ、入場無料で入れる。こんな場所があったとは。コミュニティーで連れて行ってもらった。江戸を妄想しながら、その時代なら入れない場所へ一般人が足を踏み入れる。庭園や江戸城あと、現在城はないがなんだかすごい! そんなふうに、想像力を張り巡らしまわると一段といいと思う。1時間ちょっとのお散歩だったが、なんだか時間の流れがゆったりしていて、優雅さを感じた。外国人の方も沢山いて、庭園の鯉や松や、The日本庭園をみて、感じで! 素晴らしすぎる。これが、無料なんて日本ってすごい。1月8日。冬で花も咲いていないがぜひぜひ訪れてみて欲しい場所。
東京のど真ん中にこんな静かな空間があることが嬉しい。
歴史好きや大河ドラマ好きなら一度は訪れてほしいところ。徳川家ってやっぱりとんでもない権力を持っていたんだなぁと改めて思わせてくれます。休日の散歩コースとしてもオススメ。入れる時間と出る時間は決まっているので時間の確認は必須です。
江戸城本丸石垣跡。
大阪生まれ、太閤さん贔屓を差し引いても案外大きくなかったんだ、と思いました。むしろ目の前に広がる本丸御殿(表御殿・中奥・大奥)跡の広さに驚ろかされました。
御衣黄が2本あります。1本は富士見多聞から石室を過ぎたベンチの後ろ、小さな名札がついてます。もう1本は、天守閣石垣の西南角にあります。これはでかい。こんな大きいのは初めて見た。
2022/04/09
江戸城は太田道灌が築き、徳川家康が江戸に入ったあとに居城とし、その後に徳川幕府が開かれてからは天下普請の拡張工事が始まりました。
元和8年 (1622年) に高さ60メートルの壮大な天守が完成しましたが、明暦3年 (1657年) の明暦の大火により天守は焼け落ちてしまいました。江戸城跡各所の石垣には焼かれて黒ずんだ痕が今も生々しく残っています。
その後、天下泰平を迎えたこともあり、戦国時代に櫓として機能した天守はは必要で無駄遣いだと、天守は再建されることなく、現在まで天守台だけが残されています。
現在天守台は皇居東御苑のなかの観光スポットとなり、ベンチが置かれています。北側には武道館の屋根が見えます。南側には広大な本丸のあとが広がります。東側には大手町の超高層ビル群が並び、江戸城跡と近代のシンボルとの対照が面白い場所です。
本丸跡は現在は皇居東御苑の中心地で芝生が植えられて天気の良い日には寝そべる人も少なくありません。時間がゆっくりと流れる場所です。
この広大な敷地にあった本丸御殿はさぞかし巨大な御殿だったのだろうなと思えます。
本丸とは城主 (=将軍) の居所。城の中核である。中央には天守閣が置かれていたが、江戸城の天守閣は江戸時代中盤には消失していたという。本丸は表御殿、中奥、大奥の3つに分かれている。表御殿は諸役人の執務や将軍との謁見の場、中奥は将軍の居所。大奥は将軍の私邸。男子禁制で将軍の指定や奥女中が生活する。
現在の本丸は整備されて綺麗な庭園に。緑で美しい庭園は200年前は将軍とそれを囲む人たちの様々なドラマがあった場所でもある。
天守跡に昇る階段の途中から振り返るとよく見渡せます。天守跡の下で広~い公園になっている平地ですが、その半分は大奥だったと聞きます。無血開城に奔走した篤姫のような方ばかりではなかったとすると、絵島生島の顛末のようにTVドラマで描かれる女同士の権力闘争が実際にあったのでしょうかね。思いを馳せるのも一興です。
天守閣は最初の50年建っていたけど特に戦争時以外は必要ないため 残りの215年天守台は更地でした
江戸時代の260年間は本丸で日本を治めていました
本丸は何回か火事で焼けていますが最後は火事で焼けた本丸は再建せずに本丸は更地で三の丸で江戸時代を終えています
江戸時代、徳川将軍家の居住し政務を行った場所。本丸御殿の右側と中央が政務を行い、天守閣に近い方つまり左側が大奥とされています。
将軍を補佐する大老、老中、若年寄は月番制即ち月替わりで当直勤務があり、それ以外にも将軍の近衛隊に奏者番 (そうじゃばんと読む。1万~2万石までの普代大名から選抜・ほとんどが寺社仏閣を取り仕切る寺社奉行職と兼務) 、大番頭 (おおばんがしら) 、大目付、目付、町奉行、勘定奉行、普請奉行の他各奉行、小姓がいました。
後は番方と言って、本丸を警護、警備する侍達が3交代制で当直に当たっていました。1日将軍以外に本丸を出入りする男性の数は5000人。大奥の女性は1000人で計6000人は出入りしていたと言われています。
アクセス
天守閣の方の記述を参照してください。
江戸時代260年の平和を築いた徳川将軍家の居城
幕藩体制の中心地
200を越える大名と5000を越える旗本の頂点に立つ徳川十五代の城
広さも天守の高さも日本に比類のない物でした
石垣の素晴らしさに感動、番所の建物も物凄く歴史と風情を感じさせます。
我が国を代表する史跡ですね。
本丸後の手前にある芝生も美しく、都会のど真ん中のオアシス的な場所です。
必見の価値アリです。
戦国時代の長禄元年 (1457年) 、相模国守護扇谷、上杉氏の重臣、太田道灌が江戸に城を築きました。以後、江戸は関東における政治的拠点として発展します。江戸時代に入り、城は戦いの場から政治の舞台、権力の象徴となり、取り分け江戸城は、徳川将軍家の城として、また当時の大都市、江戸のシンボルとして、比類なき地位を築きました。屏風絵、絵巻物、金箔瓦、建築図面、古文書、大型模型などを参照にして江戸城の姿を多角的に検証するとともに、焼失した「幻の天守閣」を述べます。
徳川幕府3代将軍・家光には、厚い信頼を寄せた異母弟がいた。会津初代藩主、保科正之です。正之は土津公と領民に慕われ、若松城(鶴ヶ城)内の「土津神社」には今でも多くの参拝者が訪れます。保科正之は、徳川2代将軍・秀忠の子供です。しかし、秀忠の正室・お江与の嫉妬を避ける為に、その存在は隠され武田信玄の娘である見性院に預けられ、7歳で高遠藩主保科氏の養子となります。高遠氏の重臣であった保科氏は主家の没落後、武田信玄、武田勝頼、徳川家康に仕えていたが、慶長5(1600)年に高遠城を与えられて帰還、武田氏家臣の娘を母に、真田昌幸の娘を妻に持つ正光公が初代藩主となったのです。幸松丸が、後の正之はこの正光公の養子となったのです。寛永8(1631)年、21歳の正之公は高遠藩主となります。寛永11(1634)年に家光上洛に伴って異例の侍従昇進を果たした頃には、正之の出自も諸大名の知るところとなっておりました。その5年後の寛永13(1636)年には山形、次いで会津へ移るが、将軍家光からの信頼は常に厚く、幼い4代将軍家綱の補佐を遺言で命じられたほどでした。
また、江戸初期に玉川上水の建設を建議するなどその手腕を存分に発揮し、葵紋と松平姓を与えられております。正之自身は憚って使用しなかった訳は、その子供の代からは松平氏を名乗り、徳川一族としての地位を築いていく考えでした。この保科正之が、現在見られる江戸城天守閣の姿と深く関わっております。
明暦3(1657)年、江戸の市街地を焼き尽くす大火事が起きたました。明暦の大火です。恋わずらいで若くして亡くなった娘の遺品が出火原因とする伝承から「振袖火事」とも呼ばれる、この大火事は、江戸三大大火の中でも最大級の被害規模とされ、明治以前で我が国最大の火災でした。大火は江戸城を含む江戸の町の大半を焼き尽くし、2日後にようやく鎮火しましたが、犠牲者は3万人とも10万人とも言われます。大火の後、江戸城天守閣再建の声は当然、幕府内で起こりました。天守台のみは規模を縮小して速やかに再建されましたが、それ以上の建設は行わなかったのです。
将軍補佐の地位にあった正之が強固に反対したのでした。この状況にあって最優先されるべきは何かと熟慮したのです。
正之の提言により、「江戸城下の再建・復興・福祉に多くに資金が投入し、役割を終えた江戸城天守閣は天守台のみと」なったのです。
泰平の世において実用的意味の薄い天守閣に代わり、延焼を防ぐ為の施設として広小路を上野に、芝及び浅草には新堀、神田川を拡張、両国橋の橋梁を架橋するなど、都市整備に財源が注ぎ込まれたのです。会津初代藩主・保科正之公が今なお名君の誉れ高い理由の一端がここにも垣間見られます。
地方の各省庁官僚、地方より引っ越した都内の人達は変わっても歴史と人物は地域の資源ですね。首都圏直下型地震で関東埋没 (元々は砂上の海の底が埋没谷が沢山) する事は否定出来ません。元々は埋め立て以前は海の底です。
行き違い等々の切はご容赦下さいませ。本所亀沢町6代末孫