下頭橋六蔵尊
住所 | 東京都板橋区弥生町53−1 |
カテゴリー | 寺院・礼拝所 |
評価 | 4 4 件の口コミ |
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下頭橋六蔵尊 件の口コミ
4 「下頭橋六蔵尊」、普通のお稲荷さんと思ったが、調べて見ると「下頭橋(げどばし)の六蔵さん」のお話がありました。
下頭橋は始めは丸木を数本ならべた橋で、増すれば水難事故が頻発におきていたが、寛政年間 (1789年〜1800年) に江戸周辺で最初の石橋が架けられた。下頭橋はその後、明治37年 (1904年) の道路改修の時に木橋となり、大正13年 (1924年) ふたたび石橋となり、昭和3年 (1928年) に鉄筋コンクリート造りの橋となり現在にいたっている。
この橋を下頭橋とよぶ由来は、乞食六蔵伝説が有名である。
ネットで調べた記事を引用する。
むかし、江戸から川越まで歩いていくときには、中山道板橋宿の平尾から川越街道に入り、上板橋や成増を通って行きました。川越街道が石神井川を越えるところの橋を「下頭橋」といいます。むかし、この橋は木の橋で、大水が出るたびに流されてしまいました。橋が流されると人々は、とても不便な思いをしました。
この木の橋のたもとに、ひとりの乞食が住んでいました。いつも、橋を通る人たちに深々と頭を下げ、一文、二文のお金を恵んでもらっていました。この年をとった乞食さん、自分の生まれた国も、自分の名前も、年もわかりませんが、人となりが良かったのか、宿場の人たちに大へんかわいがれ、誰れがつけたともなく、「六蔵」と呼ばれておりました。
子どもたちが六蔵のことをからかっては「下頭六蔵わーい、わい、いつも頭を下げている。」「こじき六蔵わーい、わい、いつもむしろにすわってる。」などと、はやしたてていました。子供たちにいくら馬鹿にされても、からかわれても六蔵は決しておこったり、どなったりしたことはありません。雨の日も風の日も、いつもじっと我慢して、通りすがりの人々のわらじをみつめていました。人々は、おとなしい六蔵をかわいそうに思い、ここを通るたびにお金をめぐんでやりました。
こうして、いくたびか春がすぎ秋がめぐりました。ところがある冬の朝のこと、橋の近くに住んでいる人たちは、冷たくなって死んでいる六蔵の姿を見つけました。
村の人々は「かわいそうに、たとえ乞食でも死ねば仏だ、葬ってやりましょう。」と言いながら体を持ち上げました。すると、体の下から何んと、お金がざらざらと出てきたのではありませんか。六蔵は今まで恵んでもらったお金をみんな貯めていたのです。「こりゃー、大金だ、どうしよう。」と村の人々は身寄りのない六蔵のお金の仕末に困ってしまいました。
その時、旅のお坊さんが通りかかりました。お話しを聞いたお坊さんは、はたとひざを打ちながら「村の衆、この六蔵さんの行いは菩薩行というものです。六蔵さんは、皆さんからほどこしを受けていましたが、それは世の人々を彼岸へわたそうと願っていたからでしょう。この六蔵さんの悲願を私たちで果たせてあげようではありませんか、このお金でここに、立派な橋をかけて六蔵さんの霊をとむらいましょう。いかがですかみなさん」と言いました。村の人々は、このお話にみんな賛成しました。六蔵さんは、村人の手で厚く葬られ、お坊さんはありがたいお経をあげて下さいました。
その翌日から橋のかけがえ工事がはじまりました。村の人々は土を掘り石を運び、一心に協力しました。お坊さんのさしずで、立派な石の橋が出来上がりました。
人々は、この橋を「下頭橋(げとばし)」と名づけました。もう大水が出ても橋は流される心配はありません。
ところが不思議なことに、橋が出来上がりますとさきほどのお坊さんの姿は、ふうっと見えなくなってしまったのです。後には、榎の杖がさかさに差してありました。人々は「あれはきっと、えらいお坊さんだったに違いない。弘法大師さまのお姿ではなかっただろうか」と、うわさをしました。
さかさまにさされた榎の杖は、芽を吹き枝を張り、大きく育ちました。出来上がった石橋のおかげで村の人々は、大水で流される心配もなく、それからは安心して暮らせるようになりました。
川越のお殿様も、江戸からのお迎えや送りの家来たちの頭を下げている中を「下へ、下へ、・・・・」の掛け声ものびのびと、幾たびかこの石橋を渡ったことでしょう。
やがて榎はふた抱えもあるような大木になり、根元にできたほら穴には、木のぬしと言われる白蛇がすみつき、ながく宿場の人々からうやまい恐れられておりました。
ちなみに小説家「吉川英治」が昭和8年「オール読物5月号・名作短編集」で「下頭橋由来」という話を掲載しています。
昔は、橋のたもとに墓石みたいな感じで鎮座していたそうで、昭和40年代に出版された[東上線各駅停車の旅]という本にその写真が載っていた。今もあるようで[下頭六蔵菩薩乃塔]と書かれているのは、死んだ後に菩薩様に救われるようにという意味を込めて刻んだそうで、これは只の石碑じゃなくて六蔵のお墓なんです。まぁ、これだけ改装したんだから、さすがに遺体は別の場所に埋葬したんでしょうね。この前にある道が昔の川越街道で、橋の袂に街道第一宿の上板橋宿があったそうだ。宿場町というのは公共の流通ターミナルのようなもので、人足や荷馬車を常備した場所を指し、娯楽時代劇に出てくる宿屋はあくまでも民営のものだから、利益が出ない宿場町にはなかったそうです。ここは中山道の板橋宿から目と鼻の先にあるから当然宿屋はなくて、川越街道沿いの作物を集める集荷場だったらしく、昭和の初めまであったそうだ。又、上板橋宿という名は、ここが北豊島郡上板橋村だったかららしい。東上線の上板橋駅は下板橋駅の次の駅だったそうで、そこが寒村だったから地名を駅名にしてもわからないだろうということで、下板橋の北という意味で上の字をつけたに過ぎないそうだ。