宝持寺
住所 | 東京都板橋区赤塚8丁目4−9 |
電話 | +81 3-3930-0004 |
サイト | city.itabashi.tokyo.jp |
カテゴリー | 仏教寺院, 観光名所 |
評価 | 4.6 7 件の口コミ |
Hojiji | |
最寄りの枝 文殊院 — 東京都板橋区仲宿28−5 |
|
近くの同様の会社
|
宝持寺 件の口コミ
7 板橋らしさを感じさせる心に残る風景や風物、感動や安らぎを与えるものを区民のみなさんから募集して選定した板橋十景にも選ばれています。
赤塚城に居城した千葉自胤が開基して徳川家康から朱印地40石を寄進された格式あるお寺で、境内の宝物館には千葉氏寄進状・徳川家朱印状など多数の由緒ある文化財が保存されているんですって。
境内には、幕末の長崎町年寄で砲術家としても名高い高島秋帆が徳丸ヶ原(現在の高島平)で行った西洋式砲術の調練を顕彰して建立された顕彰碑もありました。
高島平という地名は高島秋帆に因んでいるそうです。
幕末にオランダ人から砲術を学んだ高島秋帆が幕臣の子弟たちに大砲などの近代兵器のあつかいを指導した場所。
徳丸ヶ原、高島ヶ原で本部に使用したのが板橋区にある松月院。高島平という地名は高島秋帆の名前に由来するとか。
当時は江戸の郊外で高島ヶ原などと言う名前もなかったのではと勝手に思ってます。
その松月院の駐車場にもクヌギの落ち葉がたくさんです。
「房総に勢力を持っていた武将・千葉自胤が康正2年(1456年)に現:千葉県の市川から赤塚城に移り、その後1492年に当地にあった古寺・宝持寺を自身の菩提寺として定め、土地を寄進し、松月院と名を改めさせた」とのこと。静謐な佇まいの曹洞宗(禅宗)の寺院です。今は幼稚園や葬儀を行え会館も併設され、私達の生活とも繋がりが深いです。
宝物館には、少し離れた所にある大堂の阿弥陀堂にあった阿弥陀如来像が今はここに安置されており予約すれば拝観が可能です。その他にも徳川幕府歴代将軍のからの文書が残されております。
松月院の正式名称は「萬吉山 (ばんきざん) 宝持寺 (ほうじじ) 松月院 (しょうげついん) 」で、室町時代の延徳 (えんとく) 4年 (1492) に武蔵千葉氏の基盤を築いた千葉自胤 (ちば これたね:1446-1493) が寺領 (じりょう) を寄進 (きしん) して中興 (ちゅうこう) したと伝えられている曹洞宗 (そうとうしゅう禅宗 (ぜんしゅう) の寺院です。
安土桃山時代の天正 (てんしょう) 19年 (1591) 、徳川家康より40石の朱印地 (しゅいんち) を与えられ、江戸時代 (1603-1867:265年間) に入ってからも歴代将軍から朱印地が与えられました。
※朱印地 (しゅいんち) 将軍の朱印状によって神社・寺院の領地として安堵された土地のこと。
オランダ式の砲術を導入し、日本の洋式軍備拡大に尽力した西洋砲術家 高島秋帆 (たかしま しゅうはん 1798-1866) が天保12年 (1841) 5月9日に武蔵国 (むさしのくに) 徳丸ヶ原 (とくまるがはら) :現在の高島平一帯において日本初の西洋式砲術演習を行った際、本陣がこの松月院に置かれました。
あの勝海舟 (かつかいしゅう) もこの演習を見学したそうです。
松月院境内には、高島秋帆の功績を称え、大正11年 (1922) 12月6日に建立された「高島秋帆先生紀功碑」 (別名:火技中興洋兵開祖碑) という記念碑があります。
本堂、山門 (さんもん) 、中門、鐘楼 (しょうろう) etc… いずれも立派な建造物です️
山門と中門の間に「松月院幼稚園」があり、ディズニーキャラクターのプルートのベンチがありました️
松月院へのアクセスは、東武東上線「下赤塚駅」より徒歩️約15分です。
また、松月院から徒歩約5分の場所に東京大仏 (赤塚大仏) で有名な「乗蓮寺 (じょうれんじ) 」と「板橋区立赤塚植物園」 (入園料無料) 、もう少し先へ足をのばすと「板橋区立美術館」 (有料) 、武蔵千葉氏の居城だった「赤塚城跡 (あかつかじょうあと) 」:石碑と立看板、「板橋区立郷土資料館」 (入館料無料) などの施設があります️
板橋区立郷土資料館は都営三田線「西高島平駅」から徒歩️約15分なので、「下赤塚駅」「松月院」「東京大仏」「板橋区立郷土資料館」「西高島平駅」というルートで巡るとスムースなのではないかと個人的には思います️
足腰に自信のない方は、成増駅からバスで行かれるのが良いのではないかと思われます️
松月院 萬吉山宝持寺 曹洞宗
延徳四 (1492) 年、千葉自胤 (よりたね) はこの寺を菩提寺と定め、寺領を寄進し自ら中興開基となった.
山門を入ってすぐ右に名木「ひいらぎ」がある。(写真)
ヒイラギは厚い常緑の葉の鋸歯(ぎざぎざ)が鋭く、さわるとひいらぐことから、この由来が出ているそうだ。
ヒイラギの葉は若木では鋸歯が鋭く、古木になると鋸歯は消滅して全緑となり丸くなることから、人間の成長過程を象徴するとの説話も残る。
松月院のヒイラギは、上部の樹幹の葉は丸く、下部の若い枝の葉は尖った鋸歯を持っている。このような説話の葉の特徴を備えた古木は区内には珍しいと説明文に書いてある。
この紀功碑(写真は、別名火技中興洋兵開祖碑とも呼ばれ、ここ松月院に本陣を置き、徳丸原で日本最初の本格的な西洋式砲術を指揮した、高島秋帆を顕彰する目的で大正11年12月6日 (1922) 建立された記念碑。
高島秋帆(写真)という人物は大変立派な人物で、長崎の町年寄の息子として生まれ、出島でオランダ語、砲術を学んだ後、アヘン戦争で中国が惨敗したことに意を決して時の幕府に西洋式調練と西洋式砲術を進言して徳丸が原(高島平)で天保12年 (1841) 5月7日~9日までの3日間西洋式砲術調練を実施した。その時にこの松月院に本陣をおいて門弟100名とともに寝起きをした。
多くの藩からも弟子をとり西洋式砲術の普及につとめたが、讒言により密貿易の罪に問われ11年間幽閉された。
その後、幕府講武所において各藩を指導して西洋砲術の普及につとめ69歳でこの世を去った。
日本陸軍の創設者の一人とされている。
松月院門前の石屋さん店頭にこんなものが・・・(写真)
著作権がどうのこうのと野暮なことは言わない。
また、この松月院から東京大仏通りを挟んだ向かい側に松月院大堂があるが通りからは見えないので土地の人でも知らない人が多い。
江戸名所図会の松月院大堂(写真)
かっての大寺も江戸時代には草堂になっていた。
806年の創建で鎌倉時代以前は七堂伽藍をそなえた大寺院であったので、村人は大堂と称していたという。永禄4年 (1561) 3月長尾景虎 (上杉謙信) が上杉憲政を奉じて北条氏康を小田原に攻めた際に、堂宇ことごとく焼き討ちにあって消失したと言われる。
大堂入口は幹線道路からはずれた住宅街へ入ったところにありました。
古刹の雰囲気がプンプンする。(写真)
この小高い丘は古墳。
806年の創建で板橋では一番古い寺。
正面が本堂、右側が八幡神社。(写真)
南北朝時代には七堂伽藍に十二脇坊を備えた大寺であったために大堂と呼ばれたが今はその面影はない。
庚申塔か。(写真)
境内には古いものがごろごろしている。
風化した石の表面がその古さをあらわしている。
江戸市中からの参詣客が絶えなかったと言われているが今は訪れる人もなく閑散としている。
高校時代に千葉氏の墓所を見た記憶がずっとあった。
高校の帰りに寄り道をして、どこをどう行ったのかわからないままその記憶だけがずっと残っていた。
あれから30年余りの時が流れ、たまたま訪れたこちらのお寺で見つけた。
ここだったんだ。。
寺の記憶が一切飛んでしまって、境内に何があったかの記憶がないのに、千葉氏の墓所だけなぜ覚えてたんだろう。
とにかく、目立つのが千葉氏の家紋が随所に見られるところ。
かっこいいんだわ、これが。「月星」名前も響きもいい。
そして高島秋帆が徳丸ヶ原で行った砲術訓練でこちらを本陣とした円で作られた顕彰碑。ここでなんとなく記憶にあった引っ掛かりが呼び起こされてきた。あった、確かにあった、これ何だ?という思いを確かに抱いていた。
まだ、個人でパソコンを持つなんてマニア以外にはいない時代。
本に出てきた歴史上の人物を五十音順にカードにまとめ、そこに生年と没年、事績を記載して図書館の貸し借りカードのようにまとめてたが、それ以上に勉強などの学業に追われ、結局頓挫。頭の中ではこれをもとに、今では当たり前のようにYoutubeにある各大名の勢力図の増減を画面で作りたいという思いがあってこちらに調べに来たのだった。
それは、のちにCGと呼ばれ、今では誰でも簡単に作ることができるが、私の頭の中で30年以上前、構想自体は小学生の頃だったが、そこに至る過程が分からず、中学以来、どんどん数学理科嫌いになっていってしまうのも手伝って、理想だけが頭に残っていたのだ。
とにかく、その千葉氏の墓所と再会できた。
静かな境内でひとり再会を喜び、そして併設されてる幼稚園の園児と父母に悟られないよう歓喜していた。
地図を見ると松月院を名乗る場所が広範囲にわたっている。
本陣に定められた史実と合わせて考えてみると、昔は相当に広くいろんな建物や庭園、宿舎宿坊などがあったんだろうな。