勝海舟生誕の地 記念碑
住所 | 東京都墨田区両国4丁目25−12 |
時間 | 00:00-24:00 |
サイト | visit-sumida.jp/spot/6069 |
カテゴリー | 史跡, 観光名所 |
評価 | 3.3 6 件の口コミ |
Katsu Kaishū’s Birthplace | |
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勝海舟生誕の地 記念碑 件の口コミ
6 勝海舟を知らない日本人はいないだろう。江戸末期に日本軍備の近代化を進め、戊辰戦争では江戸総攻撃を考えていた西郷隆盛を説得し、江戸城無血開城を成し遂げた幕末の偉人である。
その勝海舟が、生まれたのがこの辺らしい。父の小吉は勝家に婿養子になっていたが、父の実家である男谷家がこの辺にあったのだ。赤坂に越す7歳までこの地で過ごしたという。
屋敷跡などはなく、両国公園となっており、公園の片隅には勝海舟の偉業をたたえる記念碑と年表、海舟が座ったのであろう椅子のモニュメントがある。子供たちが遊びまわっており、記念碑の陰でかくれんぼをしている。子供たちは海舟には全く関心が無さそうだ。
海舟は男谷家の紹介で、幼少時に徳川慶昌の遊び相手として江戸城に召されている。そのまま出世する可能性もあったが、慶昌の死去により御役御免となり、16歳で家督を継ぐ。
石高41石の無役で小身の旗本として生活は厳しかったに違いない。正月に親戚にもらった餅を持って帰る途中、風呂敷が破れてしまい、暗い夜道で餅を探すものの、惨めさを感じて、結局、拾った餅を川に投げ込んでしまったというエピソードもある。
転機は突然やってくる。1853年、黒船来航により開国を迫られた幕府は、市中から国防に関する意見書を募集する。今で言うパブリックコメントだ。この時、海舟が出した意見書が幕府の目にとまり異国応接掛附蘭書翻訳御用となる。異例の大抜擢だ。その後の活躍は言うまでもないだろう。
明治になっても政府の要職を歴任したが、気が進まなかったのか役職は辞退したり辞職するといった事を繰り返した。晩年は孤独な生活だったという。
1899年、脳溢血により息を引き取る。海舟の最期の言葉は「コレデオシマイ」だった。享年77。墓は海舟の別邸 洗足軒のあった東京大田区の洗足池公園にある。
両国公園の中にある、記念碑および壁面に掲示された勝海舟の事績。幕末史に興味がある方、『氷川清話』や『夢酔独言』を読んだことのある方は、感慨深く見られるかも。
本所・両国界隈は江戸から明治にかけての有名人の旧居(跡、ばかりだけれど)が多数あるので、よく調べてから行くと、数キロのお散歩でかなりの数を回れます。
一度来たかったNHK時代劇ドラマ『小吉の女房』の舞台となった勝麟太郎 (海舟) 生誕地、勝麟太郎の親父「勝小吉/演: 古田新太」と小吉の女房「お信/演: 沢口靖子」の人情歴史ドラマ
ドラマ見て勝麟太郎 (海舟) の生まれた場所が両国と分かり、やっと来れました
綺麗に整備された両国公園の一画に石碑あり、勝海舟の経歴絵巻の壁に何故か椅子の造型も?
生誕は1823年 (文政6年) 黒船襲来ペリー来航の30年前、貧乏旗本から才覚一つで幕末の風雲児「幕末の三舟」、咸臨丸で渡米、軍艦奉行に軍事総裁、西郷隆盛と芝で面会し江戸城無血開城、坂本龍馬曰く「日ノ本第一の人物」