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勝海舟夫妻の墓【大田区指定史跡】

住所 東京都大田区南千束2丁目3
電話 +81 3-3777-1070
時間 00:00-24:00
サイト city.ota.tokyo.jp
カテゴリー 史跡
評価 4.1 7 件の口コミ
Graves of Katsu Kaishū and his wife
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勝海舟夫妻の墓【大田区指定史跡】 件の口コミ

7
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ken
27 五月 2022 7:58

江戸城無血開城と海軍育成に尽力し、幕末の三舟の一人としても有名である幕末期から明治時代まで活躍した幕臣、政治家、伯爵、初代海軍卿・勝海舟氏のお墓?
彼のお墓に連れ添うように生前から嫌味一つ言わないで彼の妾とその子供たちと同居し、異腹の9人の子供を分け隔てなく可愛がったマリア様的な方で「おたみさま」と慕われ呼ばれていた彼の妻であり元深川の芸者であった江戸時代末期から明治時代に活躍した勝海舟氏の正妻、芸者・勝民子さんのお墓もあります?
お墓は彼が生前の頃から図案化し考えていた物らしいです
お墓に対する想いは人一倍だったんだなと深く考えさせられました
また石塔に刻まれている"海舟"の文字はあの徳川幕府最後の将軍として知られている幕末期から大正時代にかけて活躍した江戸幕府第15代征夷大将軍 、政治家、華族・徳川慶喜公筆の物らしいのでかなり必見です
五輪塔のお墓に石燈籠がう〜ん味わい深く、特に見える彼が大好きだった洗足池を望める最高の場所はいと美しい
夫妻のお墓は大田区の指定史跡に指定されています
お墓以外にも歴史上に名を残した方々の奉納物もあるので目を離せません

yutaka
12 三月 2020 3:23

昔の事ですがこのご夫妻の墓へ掃除道具を車に積み込んで小学生だった息子と一緒に墓掃除をした思い出がある。

勝海舟は江戸末期の政治家、軍事家、教育者。
勝海舟こと勝麟太郎は江戸本所で生まれた江戸っ子。
勝家は小普請の仕事もない貧乏旗本で食べて行くことにも大変苦労していた。
10代の頃から島田虎之助に入門し剣術・禅を学び直心影流剣術の免許皆伝となる。
オランダ語を苦学の末に習得して、オランダ塾を開いたが、生活は貧乏のままであった。
時に、アメリカ軍艦隊が江戸湾沖に来航し、大砲による脅しで開国を要求し国内は大騒ぎとなる。
その当時日本(江戸幕府)は鎖国という一国平和主義で平和ボケしていたため、国防の準備をしておらず、広く一般からも海防に関する意見書を求めた。
海舟の意見書が幕府の注目を集め、幕政に参加する足がかりをつかんだ。
このままでは日本は西洋諸外国の植民地になってしまう、それを避けるには戦艦などの武器の調達と兵の訓練が早急な対策であるとの持論を持っていた。
それとアメリカへ咸臨丸による幕府の親善使節に随行して、アメリカ大統領は市民の投票により選ばれることなどの自由、文化を見分して、日本の政体を変える必要を痛感した。
アメリカから帰った海舟は神戸海軍操練所を設立して海兵の育成に乗り出したが、訓練生の中には討幕派の過激な輩もいたために操練所は閉鎖され、海舟は蟄居の処分をうけた。
その後、時勢は風雲急をつげ、幕府は海舟の力に頼らなければならなくなり、幕政に復帰する。
鳥羽伏見の戦いで幕府軍は敗れ、将軍徳川慶喜が寛永寺で謹慎している時に官軍は朝敵征伐の大義を掲げて東海道を江戸に進撃してきた。
江戸幕府内は戦闘派と降伏派に分かれたが、海舟は戦闘派を排除して、江戸近くまで来た旧知の西郷隆盛と田町の薩摩屋敷で談判を始めた。
官軍の要求は、謹慎中の将軍の命、幕府軍の武装解除、財産の譲渡など厳しいものであった。
海舟は幕府に温存してある海軍と訓練された兵をたてに場合によっては一戦を辞さない態度で臨み、将軍の助命などを勝ち得て、江戸無血開城し、江戸市民を戦火から救うことが出来た。
このころには海舟は幕府の不穏分子、官軍兵の双方から命を狙われあぶない状況であった。
海舟の怖れていたことは、内戦に乗じて外国がそれぞれに加担して最後には植民地化されることであった。
実際にフランスが幕府軍を支援することを申し出ているが
それを拒否している。
明治期には海舟は政府内に入り、徳川家の存続と維持に努力をしており、徳川慶喜と明治天皇の和解の間を取り持ち、徳川家の朝敵の汚名を除き、慶喜の公爵収受をすすめた。
海舟はこの時点で自分の役目は終わったとのべている。
海舟の有名な言葉「毀誉褒貶は他人の主張、行蔵は我にあり」
自分を褒めたり、貶したりするのは勝手にすればよい、自分の行動は自分で責任をとる。
難局を乗り越えてきた海舟は写真を見るとその表情によく表れている。
洞察力のある力強い目、意志の強さを思わせるしっかりと結んだ大きな口、いざというときに備えるような刀の上に置いた手。

masahiro
15 一月 2020 11:12

幕末明治の偉人、勝海舟とその妻の墓。周りは非常に自然豊かな場所でもある。駅からは少し歩くことになるが、それほど苦では無い。池を一周廻るような感覚で見て回るのが良いかもしれない。神社や鳥をたくさん見れるので、幸せな空気も広がりそう。

ken
08 八月 2019 18:00

洗足池のほとり近くに勝海舟夫妻のお墓があります。墓地は大田区の指定史跡として文化財になっています。東急池上線の洗足池駅から徒歩10分も掛らない距離で、洗足池公園の横に位置します。そこの案内板によれば、海舟は生前から風光明媚なこの地が気に入っていたようで、明治24年には土地を取得して「千束軒」と称した別邸を設けるほどでした。その傍に自分の墓までも用意していたのです。千束軒は後の戦災で 焼失してしまい、現在は大田区立第六中学校が建っています。
海舟の人となりは、幕末史・回想録・小説・雑誌・映画・テレビドラマ・漫画・アニメ等で広く知られているところですが、その人物像の捉え方は様々で、そこには主題に沿ったデフォルメ(誇張・変形)もありますから、その辺の先入観や偏りを割引く必要があるかもしれませんね。
万延元年(1860年)に咸臨丸でともに渡米した福沢諭吉が、明治10年(1877年)の西南戦争後に脱稿した『痩我慢の説』では、「勝海舟は講和論者であって、江戸城を開城し、内乱を避けた功績は認めるにしても、幕府に対する痩我慢の情がなかった・・・一時的な戦乱を回避したということと、何世代にも渡る精神や気概を損なったことと、その功罪は埋め合わせがつくことなのでしょうか。」と非難しています。そういう見方もあったのですね。また、海舟の回想録『氷川清話』と『海舟座談』で、維新に奔走した人々の評価や時代の変遷を知ることに興味が注がれますね。
海舟は、明治32年(1899年)1月19日に赤坂氷川の本宅で亡くなりました。死因は脳溢血とされています。享年77歳。
妻(民子)は、海舟没後から6年経った明治38年(1905年)に亡くなったのですが、遺言で「海舟の側に埋めてくれるな」としているために青山墓地に葬られました。海舟には妾が5人とも8人とも居たと言われるほどで、実際、赤坂氷川の邸宅では妾も同居していたのですから、この遺言も理解できますね。納得です。しかし、その後に事情はわかりませんが、遺言に反して孫の判断により洗足池の墓地に移されているのです。
五輪塔の形で二基並ぶ墓は静かに洗足池と向き合っています。この墓地は大田区の管理があるお陰なのか常に手入れが行き届いた状態です。海舟の遺徳に触れながら明治維新の人々を偲んでいただけたらと思います。お出掛けをお勧めいたします。

Tadashi
05 六月 2019 18:16

洗足池公園内に在り、勝海舟の遺言により、ここに、お墓が造られ妻・民子の墓と一緒に並んでいる。勝が1868年、西郷隆盛の本陣が置かれていた池上本門寺に行く途中、立ち寄った洗足池の風景に感動したからと云われている。勝は池上本門寺で西郷隆盛と「江戸城の無血開城」について会談し、江戸幕府の終焉と江戸の戦火を免れることになる。

薩摩律子ばぁば
23 二月 2019 12:50

大田区の洗足池の側にある勝海舟夫妻の墓。
晩年をこちらで過ごされたご夫妻は、きっとこの地がお気に入りだったのでしょう。
西郷隆盛翁との関わりを持つ石碑なども周りにありました。夜に訪れた為、あまり詳しくは見れなかったです。また明るい時間に再訪したいです。

乙名丹次郎
30 十一月 2017 6:16

遺言により、当地に葬られた海舟夫妻。
西郷隆盛と、幕府の降伏条件について田町の薩摩藩邸で交渉した後、帰り道に当地の茶屋に立ち寄って休息。その時に気に入ったのだろう、池畔に別邸「洗足軒」を建てた、という縁だそうです。幕末好きは、墨田区の両国公園にある「生誕の地」と合わせてご訪問を。

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