志演尊空神社
住所 | 東京都江東区北砂2丁目1−37 |
電話 | +81 3-3644-1445 |
サイト | www.tokyo-jinjacho.or.jp/koto/5904 |
カテゴリー | 神社, 聖堂 |
評価 | 3.9 9 件の口コミ |
Shinobu Sonku Shrine | |
最寄りの枝 |
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志演尊空神社 件の口コミ
9 寛永元年 (1624年) に菅原道真の末裔にあたり菅原長寛が稲荷神を勧請したのが始まりの神社さん。
こじんまりとした神社です。
2022年8月の参拝では、社務所には現在御朱印授与の中止中である旨の張り紙がありました。
アリオの南側、明治通りのそばに位置している少しこじんまりとした、周りの車通りの多さからすると非常に静かな神社です。
手を清める桶は行政指導により、使用不可となっており、桶の中には水はありません。
社内の説明によると1945年3月9日に戦災により消失し、1947年に志演神社と尊空稲荷神社を合祀し、志演尊空神社としたそうです。
社内には力石が祀ってあります。
これは社内の看板によりますと、江東区内では82個の力石が祀ってあり、この力石はそのうちの1つとのことで、地元では志乃武石と呼ばれているとのことです。
このあたりの土地に住む人々を守ってくださる「氏神様」だとお聞きしました。
氏神様というのは、かかりつけのクリニックがあるように、「かかりつけの神社」みたいな感じの意味っぽいです。
大きくて有名な神社に行くと願いが叶いそうなイメージがありますが、近くでいつも話を聞いてくれる神社が一番らしいです。
願い叶うと良いなぁ
清州橋通りの北側、木立に覆われた境内に鎮座される志演尊空神社、珍しい名称の神社で(しのぶそんくうじんじゃ)と読みます。由緒記に、「寛永元年 (1624) に創建された当時は深川稲荷と称していましたが、元禄年間、将軍吉宗公が鷹狩りの途中で立ち寄り、「民の志を演ぶること殊勝なり」と称したことで、神社名が志演神社となった・・・」とあります。400年の歴史を有する由緒ある神社です。
旧社殿は戦災で焼失したため戦後に再建されていますが、大樹に覆われた厳かな雰囲気の境内に佇むと、神社の長い歴史の一端に触れることができるように感じます。
2020.10.24 現在 コロナ禍の影響により御朱印対応していないようです。
※御朱印目当てで口コミを見られる方もいると思うので、書かせていただきました。
※コロナ禍不対応の口コミについてはは可もなく不可もなくで3個固定で。(とりあえずを入れないと口コミできないので)
※日付時点の情報ですので、後ほど対応可になることもあるかと思います。あくまでも参考としていただいて、頂けるか否かはご自身で改めてお調べ頂きますようお願いします。
御祭神は倉稲魂命、須佐之男命、伊邪那美命、尊空親王、手力男命です。由緒によると、1624年(寛永元年)、深川郷唐島開発の際、当地に訪れた菅原長寛(道真公より22代目)が村民の要請を受けて稲荷大神を鎮座して深川稲荷と社号を称し土地の氏神として崇め、徳川綱吉が鷹狩りの途中に参拝に立ち寄られ、「民の志を演ぶる事殊勝なり」と賞し志演神社と改名せられ、1712年(正徳2年)、当地に伝染病が流行した際、菅原快円が病魔退散、天下太平、五穀成就を祈念して紫灯大護摩を焚いたところ病は止まり人々はゴマの稲荷とも呼んだそうです。1663年(寛文3年)、尊空親王は関東へ下向し深川五本松に隠棲。親王没後、村人が親王の徳を敬慕し、邸跡に小祠を建て、村の鎮守として祀った。その後、松平伊豆守抱屋敷内に祀られた稲荷大神を社殿と共に村内に寄付され尊空稲荷神社と称した。1945年(昭和20年) 、戦災により志演・尊空稲荷両社が焼失。1947年(昭和22年)、両社を合祀し、社名を志演尊空神社と改名したとのことです。
元々有った「志演神社」と「尊空稲荷神社」が昭和20年(1945)3月9日の戦災により焼失しましたが、昭和22年(1947)に両社を合祀して社名を「志演尊空(しのぶそんくう)神社」と改名しました。御祭神は倉稲魂命、須佐之男命、伊邪那美命、尊空親王、手力男命。有り難く、”志演尊空神社”の御朱印を頂きました。
志演神社と尊空神社が、
昭和22年に合併した。
御祭神は倉稲魂命 須佐之男命
伊邪那美命 尊空親王 手力男尊。
境内はとてもいい雰囲気。
佇んでいるだけで気分が良くなる。
綺麗に清掃されている。
良い雰囲気の神社です。
「江戸東京の農業 野菜の促成栽培は発祥の地・砂村」の説明板があり、下のように書かれてました。
野菜の促成栽培は 寛文年間 (1661~73) の頃, 中田新田の農民, 松本久四郎が考案した と言われています。
初物を食べる というぜいたくが広がり過ぎると, 農家は米麦など基本食糧の生産よりも, 高く売れる 初物づくりに力を入れるようになり, また, 庶民のぜいたくは, 身分制度をゆるがすことになるとして, 江戸幕府はたびたび, 出荷日を統制する法令, 促成栽培禁止の町触れを 何回も出して, 取り締まりました。
この促成栽培の方法は, ゴミを堆積すると発酵熱が出るのを利用し, 江戸市中から出るゴミ (江戸ゴミ) を堆積, この熱を利用して 早く野菜の種をまくことで, 収穫が早くできるようになりました。明治維新以後には一層盛んになり, 昭和に入って産地の中心が江戸川方面に移るまで続きました。
江戸ごみという都市廃棄物を農業生産に活用した, 見事なリサイクルが 昭和30年代まで展開されてきた事実にも 驚きと先人の苦労がしのばれます。