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小物忌神社

住所 山形県酒田市山楯 字三之宮48
電話 +81 234-52-2700
時間 00:00-24:00
カテゴリー 神社
評価 3.5 4 件の口コミ
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飛鳥神社 — 山形県酒田市飛鳥149

小物忌神社 件の口コミ

4
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Yasuhiro
08 一月 2021 16:41

神名帳の飽海郡の項に記載のある式内社の論社の一社。
出羽國三宮。
もう一社、同名の神社があるが、日本海に浮かぶ飛島に鎮座する小物忌神社。

国道345号を少し東に入ったところに鳥居があって、そこから数百メートル進むと境内。
境内に入るところにもう一つ鳥居があって、その先、右側に手水がある。
どうも井戸水のようだ。このような井戸水をためる手水はほかでも見たことがあるが、今のような蛇口から出るものではなく、昔はどこもこんな感じだったのだろう。

その先を左に折れると階段があり、拝殿がある。
とても趣きのある神社で、古社の雰囲気が漂ういい神社。

御祭神は級長津彦命・級長津姫命・豊受比賣命となっている。一方、物忌直の祖神である椎根津彦命とする説もある。

社名の通り、古来より鳥海山大物忌神社との関係が深い神社。大物忌神社は鳥海山を御神体山とする山岳信仰の神社で、古代には噴火も起きている。その噴火を鎮めるための神社だったのかどうかはわからないが、当社が小物忌というのは大物忌神社に祀られる大物忌大神の御子神を祀っているという説がある。

創建時期は不祥。社伝によると景行天皇の御代といわれている古社。

拝殿に向かう途中、右の奥になかなか雰囲気のあるお堂がある。
夢草堂(むそうどう)と呼ばれていて、当社のHPによると「るろうに剣心」のロケに使われたらしい。祠の手前にはお地蔵さんがいらっしゃって、これがまた良い雰囲気。当社は江戸時代に長久寺が別当となり、当社を念仏修行の場としたとのことなので、このお堂はその名残なのかもしれない。

この地から500メートルぐらい南西に飛鳥という字があって、そこには飛鳥坐神社より勧請されたという飛鳥神社がある。詳しい所在は不明だが、この地は和銅年代に出羽柵が設置された場所という説がある。おそらく飛鳥坐神社を勧請したのも都から出羽柵設置にきた渡来系の役人だったのかもしれない。

Yoshiyuki
27 五月 2019 1:35

ひっそりと森の奥にある神社で入り口がなかなかわかりにくいところにある神社
御朱印は山内呉服店でいただけるとの張り紙で伺ったが余目の八幡神社の祭りへ行かれていた不在でした。

yuuta
24 十一月 2018 7:35

大物忌神社や月山神社に次ぐ格の高い神社です。惹かれたのは、風の神である級長津比古命・級長津比賣命が祀られてたからです。神社は手前まで車で行けましたが無人で暗くて、ちょっと怖い雰囲気でした。

中村誠司
30 十月 2018 9:58

社格は高いのですが、酷く寂れた印象です。
不思議なことにホームページはありました。

社伝では景行天皇時代に武内宿禰が官籍に載せたとされている。大正2年(1913年)に刊行された『飽海郡誌 巻之六』によれば、もとは「三之宮大座明神」と称し、古来より鳥海山大物忌神社の第3王子とであるとされ、鳥海山大物忌神社が「春物忌」を行った後に当社においても3日間の「物忌」を行うのが慣わしになっていたと言う。

延長5年(927年)の『延喜式神名帳』に小社として記載されているほか、元慶2年(878年)に従五位下勲七等の神階に昇叙され[1]、翌々年の同4年(880年)に更に従五位上に昇叙された[2]「袁物忌神」に相当すると見られている。

『山形縣神社誌』[3]では、寛治5年(1091年)源義家が東征の際、賊軍の勢いが強く戦が不利になった為、家臣の首藤主馬を大物忌神社と小物忌神社に使わして戦勝を祈願させた。やがて敵陣を陥落させた後、大刀と鏑矢を奉納した、との社伝を紹介している。

16世紀前期には、この地方の領主武藤氏一門の砂越(さごし)城主に社領を没収され、天正年間には兵火により社殿が焼失し荒廃していた。『風土略記』には、兵火に罹って社殿神体が焼失し、残った台座を新殿に安置したので「大座明神」と呼ばれた、との言い伝えが記載されている。しかしながら『風土略記』では、この説の真偽は不明であり、社名の由来としては不敬な称呼ではないか、吹浦の古い縁起にも大座とあるので、兵火による焼失後の呼称では無いだろうと考察している。

江戸時代に入り元文元年(1736年)庄内藩主酒井氏により復興された。『出羽風土略記』によれば、社家も無く、三之宮村の村役人が守護してきたが、山楯村の長久寺が別当となって宝暦9年(1759年)経堂を建て、1宇の仏壇を構えて念仏修行の場としたと言う。さらに観音とのみ称して社号を捨てたため、公儀の諸国神社調査からも洩れてしまったとされる。『日本の神々 -神社と聖地- 12 東北・北海道』[4]においても、再建はされたが長久寺の力が強く、念仏道場として観音と呼ばれていた、と述べている。

『飽海郡誌 巻之六』によれば、明治9年(1876年)に新たに3神を祭り、初めて小物忌神社と公称した。同年2月24日村社に列格、同年11月11日郷社に列せられると同時に大物忌神社の摂社に指定された。しかしながら、明治32年(1899年)3月26日に社殿が焼失。すぐに再建に着手し、明治34年(1901年)11月24日に竣功、遷宮式を行った。明治35年(1902年)3月25日県社に列せられた、としている。

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