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上杉鷹山公之像(立像)

住所 山形県米沢市丸の内1丁目4−13
時間 00:00-24:00
カテゴリー 史跡
評価 3.9 7 件の口コミ
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上杉鷹山公之像(立像) 件の口コミ

7
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グルメチャンネル東北
17 七月 2023 6:56

米沢藩の財政立て直しをしたかたの像。
立派な像です!
米沢城跡の中ににありました。

藤城孝孟
09 三月 2022 8:23

大倹約令」を発して藩政改革を行い、教育にも力を入れた鷹山は、織物業にも取り組み始めます。特産の青苧(あおそ)という植物の繊維を原料とした縮織(ちぢみおり)から、その後発展した絹織物のための蚕の養殖(養蚕)にも手を伸ばし、成果を出します。鷹山の絹織物への思い入れの強さは、隠居後に「養蚕手引」という書物を発行したことからもうかがえるでしょう。
また、農政改革に乗り出した鷹山は、水不足に悩む地域のため、用水事業に取りかかります。藩と村民が一体となり作り上げた北条郷(米沢市北部から南陽市までの地域)の農業用水路「黒井堰(くろいぜき)」と「穴堰(あなぜき)」は、貧しかった米沢盆地北部の田んぼを潤し、現在も水田に水を送り続けています。鷹山の改革成功の裏には、武士と藩民一体となっての協力がありましたが、これは鷹山自身が地を耕し、藩のことを思うという、彼の心がけあってのことだといえるでしょう。第35代アメリカ合衆国大統領のジョン・F・ケネディが大統領に就任した際、「一番尊敬している日本人はだれか」との質問に「上杉鷹山」と答えた、という逸話があります。当時日本でもそれほど知られる存在ではなかったはずの上杉鷹山を、なぜケネディは知っていたのでしょうか。
現在では、内村鑑三(うちむら・かんぞう)が英文で書いた「代表的日本人」をケネディが読み、そこに記された上杉鷹山のエピソードに心を打たれたというのが定説となっています。当時、日本でもあまり知られていなかった鷹山がアメリカ大統領の心を揺さぶったことに驚きです。
鷹山は藩政から退いた後も、没するまで農業の研究を続けました。幼いころに知らない土地で養子として暮らし始めた彼が、生涯をその地の繁栄のために捧げたことからは、改革を引っ張るリーダーとしていかに献身的であったかを知ることができます。
上杉鷹山の生涯や功績については、米沢市の米沢市上杉博物館で見ることができますので、訪れて鷹山の息遣いを感じて頂けましたら幸いです。行き違い等々の切はご容赦下さいませ。本所 (墨田区) 亀沢町6代末孫

Paul
07 三月 2022 16:54

Statue of the reforming samurai lord Uesugi Yozan who pulled Yonezawa out of poverty in the late 18th century. The writing on the stone plaque is one of his many famous sayings: "Naseba naru, nasaneba naranu nanigotomo. Naranu-wa hito no nasanu-narikeri" which means "You can accomplish anything if you have the will to do it, and that if you haven’t yet accomplished something you desire, it’s simply because you do not have the will to carry through. "

takegon0718
16 十月 2021 8:06

上杉神社境内の上杉鷹山像です。
松岬神社そばにも像がありますが、こちらは立像&有名な銘文入りです。分祀されて一度は上杉神社から離れましたが、戻って来られた…みたいな感じがしました

Shigezou
19 十一月 2020 5:42

上杉鷹山 (ようざん) :上杉治憲 (はるのり) 1751-1822 「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成さぬは人の なさぬなりけり」という鷹山の名言は、家臣に対して詠んだ歌で、意味は「やれば出来る。何事もやらなければ成功しない。出来ないのは、やろうとしていないからだ」となります。

鷹山は1767年 (明和4年) 、17歳で上杉家を継ぎ、第9代米沢藩主となりました。折しも藩財政は窮乏 (きゅうぼう) を極め、途方に暮れた8代藩主重定は、幕府への領地返納を決意します。辛うじて思いとどまりはしたものの、藩存亡の危機は変わりません。

鷹山はまず、大倹約令を発し、自ら率先して改革を実践 (自ら質素倹約を心がけ、自分の生活費を約8割カットしたそうです) 、慣行 (かんこう:以前からのならわしとして通常行われること) を通そうとする家臣らに厳しい質素倹約の生活を求め、領民たちと同じ目線に立つことで藩を立て直しました。

桑の栽培と養蚕 (ようさん) を奨励して産業を興し、米沢織・米沢鯉・ウコギ (植物。春から初夏にかけての新芽が美味しく、おひたしや天ぷらなど様々な料理法でいただけるそうです。また、樹皮・根皮は薬用に使われたそうです) 、笹野一刀彫 (ささのいっとうぼり) など、米沢市の名産・伝統品として今日に受け継がれている産業を根付かせていきました。

鷹山の改革は、鷹山終生の師:儒学者・細井平洲 (ほそい へいしゅう、1728-1801) の教えに学んだものでした。

鷹山の正室:幸姫 (よしひめ) は、脳の障害や発育障害があったと言われています。
いつまでも子供のような妻と一緒になって、鷹山はお人形やおもちゃで楽しんだそうです。そんな鷹山を女中たちは憐れみましたが、幸姫が30歳という若さでこの世を去るまで正室として重んじ、幸姫の父からも感謝されたとのことです。

これらのエピソードから、上杉鷹山という人の人柄の良さが十分に伝わってきましたし、「今日も慕われる名君」ということが、とてもよく理解できました&今回、米沢を訪れたことで、上杉鷹山という人が好き (Like) になりました

アメリカの第35代大統領ジョン・F・ケネディが「最も尊敬する日本人」として鷹山の名前を挙げたという逸話がありますが、この逸話の真偽は不明で、鷹山を尊敬していると述べたのは第26代大統領セオドア・ルーズベルトである、という説もあります。

が… ジョン・F・ケネディの長女で駐日アメリカ合衆国大使をつとめていたキャロライン・ケネディが、山形県や米沢市の要請に応じて2014年9月に米沢市を訪れ、父親のケネディが鷹山を称賛していたことに触れるスピーチをしたそうです

長くなりましたが、以上です (^-^ゞ

大越雄彌
27 十月 2020 11:15

第35代アメリカ合衆国大統領のジョン・F・ケネディが1961年に就任した際に、日本の記者団に「日本でいちばん尊敬する人物」を聞かれたときすぐに鷹山の名前を挙げたという逸話がある。1975年に綱淵謙錠と歴史家の奈良本辰也を迎えて放送されたNHKの歴史番組「日本史探訪」が紹介している。それによると、ケネディは『代表的日本人』により鷹山を知り、政治家の理想像を見たのだとしている。ただし、この逸話の真偽は不明である。米沢の歴史を研究する小野榮は、ケネディが上杉鷹山を尊敬していると述べたというのは誤りで、鷹山を尊敬していると述べたのは、第26代大統領セオドア・ルーズベルトであり、彼が鷹山を知ったのは、新渡戸稲造が英文で出版した『武士道』を読んだからだと述べている。

ジョン・F・ケネディの長女で駐日アメリカ合衆国大使をつとめていたキャロライン・ケネディは、山形県や米沢市の要請に応じて2014年9月に米沢市を訪れ、父親のケネディが鷹山を称賛していたことに触れるスピーチをした。

池馬蔵
26 十月 2020 2:21

城外の像と比べてこちらは立って指をさしています。勝手に選ぶ江戸時代三名君、鍋島閑叟、保科正之、そして上杉鷹山。

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