天童市立旧東村山郡役所資料館(天童織田の里歴史館)
住所 | 山形県天童市五日町2丁目4−8 | ||||||||||||
電話 | +81 23-653-0631 | ||||||||||||
時間 |
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サイト | tendo-gunyakusyo.jp | ||||||||||||
カテゴリー | 地域歴史博物館, 観光名所 | ||||||||||||
評価 | 4.3 9 件の口コミ | ||||||||||||
Tendo Shiritsu Kyuhigashimura Yamagunyakushoshiryokan | |||||||||||||
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天童市立旧東村山郡役所資料館(天童織田の里歴史館) 件の口コミ
9入館料220円。県指定有形文化財。明治11年完成の洋風建築。郡役所後は、天童町役場、天童市役所、市立図書館などとして使われ、昭和61年に資料館になったようだ。織田信長の次男信雄を祖とする天童織田藩は、天童を最後の地として、明治維新を迎えたようです。天童織田藩関連の資料や天童県東村山郡天童町天童市と歩んできた資料や所蔵品などを解説、展示しています。2月3日から3月20日まで天童雛飾りのイベントを実施しているので、天童の雛飾りのクリアファイルと紅花の種をいただけます。館内の写真撮影は禁止です。
この地域の歴史についての情報が豊富にあるこのような宝石。そこでは簡単に1時間過ごすことができます。建物のすぐ外に駐車場があります。明治天皇が行幸されました! 歴史ファンに強くお勧めします。
天童織田藩について勉強させていただきました。吉田大八さんが悲しすぎます。上司の命令通りに仕事をして、最後は1人責任を押し付けられ切腹。まるでブラック企業です。
以下、天童市HPより
天童織田藩は、織田信長の次男信雄を祖先にもつ藩であります。
織田信長が天正十年 (1582年) 家臣の明智光秀に襲われ本能寺で自害し、次男信雄が跡を継ぐことになりました。その後、織田家は小幡藩 (群馬県甘楽町) や高畠藩 (山形県高畠町) を治め、天保二年 (1831年) に、藩主の信美が天童に入り、天童織田藩が成立しました。
天童織田藩の石高は、およそ2万3千石で、領地は村山地方 (村山郡) 21カ村でありました。現在の天童市の中では、天童、大清水、窪野目、長岡、芳賀、寺津、小関、荒谷にありました。
その当時、現在の天童市には天童織田藩領のほか土浦藩北目分領、館林藩領、幕府領、棚倉藩領の村々が混在しました。
天童と織田藩のかかわりは、高畠に国替えになり天童がその支配下に入ってから、幕末に織田藩が消滅するまでの、およそ100年間になります。
その中でも、天童館 (現天童市田鶴町) を中心に家臣たちを住まわせ、直接、織田藩が天童を治めていたのは、織田信美以降、わずか約40年間でありました。
吉田大八は、天保3年 (1832年) 、江戸天童藩邸に生まれました。15歳で父の跡を継ぎ、天童藩大目付、武具奉行、藩校養正館督学 (校長) などの要職を経て、慶応3年 (1867年) 中老に昇進しました。要職を歴任する中で、江戸では安積艮斎に就いて儒学を学び、天童では、藩財政の立て直しに取り組みました。当時、天童織田藩の財政は困難にあえいでいました。大八はその救済策の一つとして将棋駒の製作を奨励したといわれています。また、戊辰戦争の時には、藩主織田信学の代理として、奥羽鎮撫使先導役を務め、薩摩・長州などの官軍と共に庄内軍と戦いましたが、庄内軍に攻められ焼かれてしまいました。その後、奥羽列藩同盟が成立するにおよんで、藩の責任を負い、明治元年6月 (1868年) 切腹して果てました。
丁寧に飾られた雅なお雛様の数々が、レトロな旧郡役所の中で嬉しそうに誇らしげに見えました。館内で説明して下さる方々の口調も丁寧で穏やか。良い時間を過ごせました。強いて言えば、構造上、段差に注意、見とれ過ぎて、足元確認怠りませんように。
天童の街を走っていて偶然見つけました。
15時過ぎだったので、せめて外観だけでも観たいと立ち寄ったら嬉しいことに閉館は18時とのこと
天童織田家と戊辰戦争、明治時代の天童の資料が見学できます。
建物の雰囲気も素敵
明治時代の洋風建築が雰囲気があって良い。
資料は主に幕末から明治時代にかけて、そして天童温泉について扱っている。
1時間弱で気軽に天童について学ぶことができた。
駐車場は資料館脇にあり。
歴史を感じる建物ですが再建されたものとのこと。大変急な階段も忠実に再現して、その上に階段を追加したってことなのかな。とても再建には見えなかった。
ちょうど雛飾り展を開催してまして、貴重なお雛様が拝見できました。職員の方々も親切に説明してくれて良かったです。
室内撮影不可にしなくても.