南洲神社
住所 | 山形県酒田市飯森山2丁目304-10 |
電話 | +81 234-31-2364 |
時間 | 00:00-24:00 |
サイト | www.shonainanshukai.com/index.html |
カテゴリー | 神社, 観光名所 |
評価 | 4.6 7 件の口コミ |
Nanshu Shrine | |
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南洲神社 件の口コミ
7 土門拳記念館に行ったときに近くにあることを知り、お散歩がてらに寄りました。
とてもこじんまりとはしているものの、静かで綺麗で落ち着くところです。
土門拳記念館の敷地内には長いローラー滑り台や、小さい子供向けの遊具などもありファミリーで楽しめます。南洲神社だけを目的にするのではなくて、是非土門拳記念館も含めて、神社に行ってほしいです。
酒田市の南洲神社に初めて来ました️朝6時30分くらいに到着しましたが、駐車場も車多く研修会をやっていました。
さすがです。酒田市に来て良かった西郷さんも喜んでいると感じました。
南洲・西郷隆盛は維新を断行した大人物であるのに、みずから筆をとって思想を陳述することはしなかった。そのままだったならば、忘れ去られたかもしれない。しかしそうはならなかった。『南洲翁遺訓』が遺されたからだった。
もっとも正確にいえば『遺訓』は南洲自身が著わしたものではない。庄内人が南洲から傾聴した言葉を記録したものだ。庄内人がそうしたのはなぜか。
幕府側にいた庄内藩は新明治政府と戦闘をくりひろげたが、やがて恭順した。そのときの庄内藩処分の権限を持っていたのは薩摩の黒田清隆。黒田の前に頭を下げた庄内藩主は厳罰も覚悟していたが、処分はまことに寛大なものであったので、おどろいた。その後、元・重職の菅実秀は黒田に面談したさい、あのときの指示はすべて南洲から出されていたと知らされ仰天した。ここから庄内人は南洲に傾倒していく。南洲のそばにあって、先生のお言葉は一言一句まですべて聞き漏らすものかという熱情をもって書き留めたのが『遺訓』だ。
もし『遺訓』がなければ、南洲は像がつかめず、埋もれてしまったかもしれない。しかし庄内人が記録してくれたため、今日のわれわれは南洲の思想をまとめてとりだして検討することができる。西郷はもちろん偉かったが、南洲にひかれ、後世のために思想を遺そうとした庄内人もまた立派だろう。
ここに南洲を祀ったのは昭和51年のこと。それから40年ほどたったある日、南洲神社をおとずれた鹿児島銀行の頭取は、今もなお南洲を慕いつづける庄内人に感激し、神社の看板を奉納したという。
江戸市中取締の任を受けた荘内藩兵が「薩摩藩邸焼き討ち事件」を起した日から僅か9ケ月後の明治元年 (1868) 9月26日に戊辰戦争に破れた荘内藩は新政府軍に降伏しました。藩校致道館で執り行われた降伏式に臨んだ新政府軍の参謀黒田清隆の態度は敗者の面目を傷付けない礼節をわきまえたものだったそうです。
そして厳しい処罰を覚悟していたにも関わらず、その後の荘内藩に対する寛大な処分も、交渉の表の場に出て来なかった薩摩藩の西郷隆盛の強い指示があったことを後で知らされて、荘内人は大いに感激しました。以来、荘内では西郷隆盛の人徳を大いに慕い、若き13代藩主酒井忠篤自らが旧藩士70余人を引き連れて鹿児島に半年間留学しています。[出典: 荘内藩「故きを温ねて 」酒井家第十九代 酒井忠順 記]
2018.12.2NHK大河ドラマ「西郷どん」で紹介されました。
戊辰戦争に負けた庄内藩は西郷隆盛からの寛大な処置に感激して、西郷の言葉を集めた本やこの南洲神社を作りました。