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津幡城跡

住所 石川県河北郡津幡町清水リ1-1
電話 +81 76-288-2121
サイト kankou.town.tsubata.ishikawa.jp/content/detail.php
カテゴリー 史跡
評価 3.2 5 件の口コミ
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津幡城跡 件の口コミ

5
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mxa03032
06 三月 2022 22:37

源平の戦いに際し、平維盛によって築城された砦が原点。
戦国期には前田利家が佐々成政を攻める際にこの城を整備しました。
城跡には、室町時代都から逃れて来た公卿・冷泉為広の塚もあります。

駐車場あります。

まるふくかんたろう
18 一月 2022 0:20

津幡城跡は津幡川の右岸、かつての宿場町、津幡宿があった旧北陸道を見下ろす小高い丘陵地にある。今は石碑しか残っていない標高15メートルの大西山から周囲を見渡すと、ここが交通の要衝であったことがよくわかる。
寿永2年(1183)の源平合戦では倶利伽羅峠の一戦を前にした平維盛が、街道を見下すこの地に砦を築いたのが始まりとされる。その後、建久元(1190)年頃、井家庄の地頭都幡(津幡)小三郎隆家が居城したと伝えられ、観応2年(1351)には富樫氏春がこの城で越中から上洛する桃井直常と戦っている。天正4年(1576)には、越中から侵攻した上杉謙信が七尾城攻略の拠点にしたと伝えられ、好きな人なら歴史ロマンに浸ることが出来るかもしれない。
天正11年(1583)、加賀藩初代藩主前田利家の支配下になり、越中に対する防備として城を築き、弟の前田秀継に守らせた。翌天正12年(1584)、佐々成政が末森城を攻撃した時には利家は秀継と末森城救援のための軍議をここで開いたりもしたが、利家が加賀・能登・越中三国を支配するようになると津幡城は加越国境における軍事的拠点としての意義がなくなり、秀継が現在の高岡市福野町にある木舟城に移ると廃城となった。
昔は丘の上に津端小学校があったそうなのだが、今はグラウンドのみ残り校舎は丘の麓に移ったようだ。訪れた時にはグラウンドで体育の授業をやっていた。
隣接するふるさと歴史館「れきしる」はあいにくお休みだったが、少し下ると清水八幡神社、(冷泉)為広塚と河合見風句碑もあり、周辺をぐるっと一回りする価値はある。

酒井義則
11 九月 2021 6:02

城なのか、砦なのか、陣地なのか、といったところですが、石碑と説明板が建っています。
そこそこ高い丘にあるため、街道含めた西側一帯を見渡すことができます。

西村豪児
29 四月 2021 17:43

「上杉謙信も七尾城攻略の拠点にした」
1183年の源平合戦の時 平維盛配下の平家軍が津幡宿を通る旧北陸道を見下すこの地に砦を築いたのが始まりとされる。
1576年には上杉謙信が越中から入って津幡に陣を取り、七尾城を攻略するための拠点にしたとも伝えられています。
1583年、加賀藩初代藩主 前田利家が支配し越中に対する防備として城を築き、弟の秀継に守らせました。
1584年佐々成政が末森城を攻撃した時には利家と秀継が救護の軍議を開き、後に利家が加賀・能登・越中の三国を支配し軍事的役割りを終えて廃城となる。
この様に何の変哲もない小さな城跡にも人間の大きなロマンがあったと気付かされる。

鈴木出羽守重泰
28 三月 2020 15:49

残念ながら城の遺構は、ほぼ残っていません。倶利伽羅峠方向から流れてくる津幡川が、城跡の南側にさしかかると不自然に湾曲しています。おそらく川を天然の濠として活用していた可能性が考えられます。また、金沢から伸びる北陸街道は、津幡で越中 (富山県) 方面へ進路をとるため、城址の石碑周辺は、街道を監視するための櫓または見張り台だったと思われます。平安末期の源平争乱時に平維盛が砦を築いた事に始まり、要衝へと確立されていき、戦国期には金沢城の前田利家の実弟 秀継が城主をつとめ、末森城の戦いの時は津幡城で前田利家率いる救援軍が軍議を行ったとされています。

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