浅井畷古戦場
浅井畷古戦場 件の口コミ
6 畷の意味をここの名前から知る事が
できました=縄のような小さな道
石川県お馴染みの長連龍の部下達が、
伏兵に強襲され無くなっています。
その後は連龍の活躍で丹羽軍を撃退してます、
歴史を勉強する機会になって良いですね!
隣のお蕎麦屋さんに行ったとき、予約で一杯で入れなかったため、ついでにみました。古戦場で戦って亡くなった方の墓石がありました。迷わず成仏してください。
1600年/慶長5年8月 関ヶ原の戦いの前哨戦「北陸の関ヶ原の戦い」
・畷とは、縄手 (畷) の様に細い筋道の事
・西軍/石田三成方の小松城主/丹羽長重
・東軍/徳川家康方の金沢城主/前田利長
東軍/前田勢の兵25000、西軍方の大聖寺城を攻め落として金沢城へ帰還、小松城近郊の浅井畷で丹羽勢家老/江口正吉らの兵3000待ち伏せし前田勢を急襲、前田勢被害受けたが長連龍や山崎長徳らの奮戦で丹羽勢撃退し、金沢城へ撤退️
古戦場の地には、この際討死した前田方の武将の石塔9基が建っています️
この後、前田利長は9月15日の「関ヶ原の戦い」本戦には間に合わず、西軍方の丹羽長重は改易される事に
丹羽長重…織田信長/4司令官の一人/ 丹羽長秀の息子、築城の名手、改易後復活し最終的に「陸奥小峰白河藩主」に
推薦文庫本…簑輪諒『うつろ屋軍師』、織田信長家老「米のように欠かせぬ男」丹羽長秀とその嫡男/丹羽長重、長重を支える家老/江口三郎右衛門正吉の忠義と奮闘と人間模様、面白いです
関ヶ原の戦いのおり、北陸では西軍についた丹羽長重と東軍についた前田利長が戦いました。ここは撤退する前田利長軍を丹羽長重が追撃した古戦場です。駐車場はありませんが、路駐しても問題ありません。
1598年に豊臣秀吉、翌1599年は前田利家が没し、豊臣政権下で徳川家康が台頭。父 利家から越中. 北加賀と大老職を継いだ前田利長は、家康に揺さぶられ、利家の遺言を破り大坂城を退去し金沢に下る。更に家康から謀叛を疑われ、母を人質として江戸へ送り徳川に恭順。次に家康は、会津の上杉景勝に謀叛の疑いをかけたが、上杉は豊臣5奉行の1人 石田三成と通じ徳川と対決色を強めた。三成に懇願され豊臣方についた越前敦賀城主 大谷吉継は、越前. 南加賀の諸将を豊臣方につけ前田利長に対抗。利長は豊臣方の小松城 丹羽長重 (丹羽長秀嫡子、妻は織田信長の娘で、利長の妻と姉妹) と大聖寺城 山口宗永 (小早川秀秋家臣) に相対するため、根上 (能美市) に二口城を築き、2万5千の兵を率い金沢を出陣。小松城を包囲し今江城 (小松市) 、松山城 (加賀市) を占拠し本陣とする。更に占拠した南郷城 (加賀市) から大聖寺城を攻撃し、城主 山口父子を討ち取る。その後 利長は三道山 (能美市) に兵を移動したため、今江城を占拠していた前田軍も利長本軍に合流のため移動、丹羽軍はこの機を逃さず、密かに小松城を出陣し、浅井畷の北と南に兵を伏せた。今江城の前田軍の殿軍を務めた長 連龍は南浅井を通ったため、丹羽軍の猛将 江口正吉. 南部光顕の伏兵と遭遇、この地にて戦闘となった。